ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

作詩家

大木惇夫『緑地ありや』第13章

恵子の直腸癌の手術は成功し、2ヵ月後には再びガーデンホームへ移転しました。しかし大木は恵子の余命が一年足らずと聞き、吉祥寺の家を引き払い、以前改造社の『世界大衆文学全集』の印税で入手した恵子の大島の反物も質に入れ、神田のアパートへ引っ越しま…

大木惇夫『緑地ありや』第12章

妻病みて 医者を呼ぶとて 日の暮れの 巷路ゆけば、こがらしに吹かれて行けば、 みちばたの小暗きに ほのじろき水鉢に 水仙の芽のさむざむ明かりぬ。わが胸も ややにふるへぬ、ふるへつつ 見やりつつ 巷路をとぼとぼ行けり、こがらしに 吹かれて行けり。 ― 日…

大木惇夫『緑地ありや』第11章

大木たちが東京へ戻った翌年に関東大震災があり、不自由な生活をしながらも大木は翻訳や詩作を続けていました。翌1924年(大正13)には翻訳書『基督の生涯』を出版し、幸い好評を博すことができました。また翌年には処女詩集『風・光・木の葉』が北原白秋の…

大木惇夫『緑地ありや』第10章

新鮮な大気と自然豊かな小田原に移転して、大木も恵子もめきめき元気になっていきました。二人の住まいは様ざまな芸術家達の溜まり場になり、談論風発の日々が続きました。ある日博文館の同僚が小田原に住む北原白秋に詩を依頼しにやってきて、大木も同行し…

大木惇夫『緑地ありや』第9章

大木は少年期からロシア文学にひかれていましたが、博文館に入ってからはフランス文学やフランスの詩にも興味を持つようになっていました。そうしたある日同僚に勧められて新作のロシア小説を読み、それに刺激をうけて小説を書き始めます。 結婚生活も無事に…

大木惇夫『緑地ありや』第8章

大木は博文館で編集の仕事に邁進していました。同僚は様ざまな観点から文学や教養というものについて教えてくれました。 広島へ帰った恵子は父親から激しく非難され、体調をくずして入院してしまいました。そうして何ヶ月も過ぎた時、父親が突然事故死してし…

大木惇夫『緑地ありや』第7章

文学は大木の大きな夢でしたが、目前の夢はフランス語の詩を原語で読むことで、そのために神田のアテネ・フランセへ通っていました。広島の恵子とは何度も手紙をやりとりし、ある日恵子は上京してきました。二人は大木の家で愛撫にのみ明け暮れる日々を過ごし…

大木惇夫『緑地ありや』第6章

言はむ術(すべ)もあらじ、 ただに泪おちぬ、 青き空を指して 道を尽くしたれば 雪と岩と茨 傷み 歎き越えて 到りがたき極み、 山よ、山よ、山よ。 ― 断道 上京した大木は小さな出版社で雑誌編集の仕事に就き、夜は正則英語学校で英語を学びました。取材で…

大木惇夫『緑地ありや』第5章

徴兵検査も済んで(近眼のため丙種不合格)大人というものになった21歳の大木宛に、恵子から弁護士の夫との愛のない生活と大木への思いを綴った2通目の手紙が届きました。大木は恋愛に絶望し、文学の夢も封鎖され、友人の心中騒ぎに巻き込まれて借金取りに悩…

大木惇夫『緑地ありや』第4章

18歳になって商業学校を卒業した大木は三十四銀行広島支店に就職しました。文学サークルの同級生の多くは文壇に主流的な勢いを占めている早稲田大学へ入っていきました。単調な銀行の仕事でしたが、宿直の夜には田山花袋『田舎教師』、ショーペンハウエル『…

大木惇夫『緑地ありや』第3章

ある日恵子から大木は写真掛けを贈られますが、そこには忘れな草(Forget me not)の青い花が刺繍されていました。英語のレッスンは中止となり、恵子は親の意向で結婚してアメリカへ行くことになったことを告げます。そして「きっと帰ってくるから」と言い残…

大木惇夫『緑地ありや』第2章

大木は恵子の家を何度か訪ねるうち、父親は松江で事業をしていて不在なこと、寝たきりの祖父や身体の弱い母親、小さい弟妹たちの様子がわかってきます。そして頻繁な手紙のやり取り、外で待ちあわせての初めての接吻。 人を待つ夜のひとときは 風のそよぎか…

大木惇夫『緑地ありや』第1章

大木惇夫(おおき・あつお、1895-1977)の自伝小説『緑地ありや』(大日本雄弁会講談社、1957)は、雑誌に13回にわたり連載されたものです。その内容をすこしずつご紹介します。大木惇夫(作中では薫一)は明治時代末期に広島に生まれました。両親と5人の弟妹の…

大木惇夫『緑地ありや』を読んでいます

深井史郎『平和への祈り』の詩を書いた大木惇夫(おおき・あつお、1895-1977)の自伝小説『緑地ありや』(講談社、1957)を入手しました。これは1933年頃までの前半生が自作の詩と共に書かれており、雑誌『婦人画報』の連載を本にしたものです。この本のタイトル…

ゲーテの詩

ゲーテの作った詩には多くの作曲家が曲を作っています。『旅びとの夜の歌』は30代の作品ですが、東洋への憧れから生まれた70代の作品『西東詩集』(West-oestlicher Divan)も忘れられません。いわゆる「西風の歌」の冒頭を掲げておきます。ズライカはこれを…

大江健三郎

岩波書店のPR誌『図書』に大江さんが「親密な手紙」というコラムをこの1月から書いてらっしゃいます。3月号を先日教文館で入手し早速ページを開いたところ、「エリオット」の文字が飛び込んできました。 ……私は二十歳で深瀬基寛氏の『エリオット』と『オーデ…

エリオットと大江健三郎の引用

大江健三郎が引用したT.S.エリオット(1888-1967)はミュージカル『キャッツ』の原作者としても知られています。彼は米国生まれ、ハーバード大学で仏文学・哲学などを学んだ後フランス・ドイツ・英国に留学。『荒地』は1922年の発表で、第一次大戦後の荒廃し…

大江健三郎『上機嫌』その2

大江健三郎の『上機嫌』には、もうひとつ特徴がありました。それは、文中のいくつかの言葉がゴシック文字で濃く表されていることです。コクトーの戯曲『オルフェ』でも一箇所「この僕が」という台詞がゴシックになっていました。『上機嫌』でゴシックになっ…

大江健三郎『上機嫌』その1

大江健三郎の1959年の短編のひとつに『上機嫌』があります。丁度『ヒロシマのオルフェ』の台本(『青年のオルフェ』→『暗い鏡』)を書いていた時期と重なる作品です。登場人物は「オペラ台本を書いている私」「婚約者の映画女優」「オートバイ操縦者のオルフ…

1958年から1960年春までの大江健三郎

大江健三郎の軌跡を『大江健三郎文学事典』から抜粋してみました。学業の傍ら旺盛な執筆活動をしているのがよくわかります。そして卒業・転居・結婚と、人生の大きな転機でもあったこともうかがえます。武満徹との出会いもこの時期です。(『暗い鏡』の執筆…

大江健三郎の初期の作品

『ヒロシマのオルフェ』は最初『暗い鏡』というタイトルで上演されましたが、そのテキストの第一稿のタイトルは『青年のオルフェ』でした。1959年前後の大江作品のタイトルには、「青年」が多く登場します。『青年の汚名』『報復する青年』『後退青年研究所…

芥川也寸志・大江健三郎略年譜(『ヒロシマのオルフェ』まで)

芥川也寸志と大江健三郎の、『ヒロシマのオルフェ』初演までの略年譜です。芥川の年齢は昭和の年号と同じ、大江はマイナス10ですのでわかりやすいです。年譜を作って気が付いたのは、本日は芥川の命日であると同時に、大江の誕生日であることでした。(敬称…

大江健三郎『水死』を読み終わりました

この本の帯の言葉を借りれば、「やがて避けようもなく訪れる、壮絶で胸を打つクライマックス!」というのが、単に販売用の宣伝文句ではないことがよくわかりました。また「権力」や「性」といったこの作家のずっと追いかけてきたらしいテーマについても、そ…

大江健三郎さんからの葉書

『ヒロシマのオルフェ』の台本作者である大江健三郎さんに、ニッポニカから演奏会の案内をお送りしたところ、あいにく都合がつかないので来場できない、という内容の葉書をいただきました。「晩年の仕事」がいろいろあるそうです。この「晩年の仕事(レイト・…

大江健三郎『水死』を読んでます

先日購入した『水死』をすこしずつ読んでいます。作者の自伝的要素が強いようですが、舞台となっているのは東京の自宅と四国の生家周辺。その四国の山村風景は、芥川賞受賞作『飼育』の舞台そっくりでした。また東京での日常の風景は、作者および近親者の近…

大江健三郎の『水死』をめぐって

本日(1/9)の日本経済新聞文化欄に、大江健三郎の新刊『水死』をめぐるインタビュー記事が載っていました。リードをそのまま引用すると、「夏目漱石が『こころ』で明治の精神を描いたように、父親の死や息子、女性たちを描きながら、生きてきた昭和の精神を…

大江健三郎著『死者の奢り』『飼育』

『ヒロシマのオルフェ』の台本作者である大江健三郎(1935-)の、初期の2作品を読みました。『死者の奢り』は1957年、『飼育』は1958年の発表で、著者22〜23歳の作品です。彼の小説を読むのは初めてでしたが、題材の斬新さ、確かな文章力、ゆるぎのない視点…