ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

芥川也寸志・大江健三郎略年譜(『ヒロシマのオルフェ』まで)

芥川也寸志大江健三郎の、『ヒロシマのオルフェ』初演までの略年譜です。芥川の年齢は昭和の年号と同じ、大江はマイナス10ですのでわかりやすいです。年譜を作って気が付いたのは、本日は芥川の命日であると同時に、大江の誕生日であることでした。(敬称略)

西暦(和暦)社会・「文学」・『音楽』等 大江健三郎(1935-) 芥川也寸志(1925-1989)
1925(大14)日露交歓交響管弦楽演奏会 7/12東京に生まれる。
1926(昭1)近衛秀麿、新交響楽団を組織
1927(昭2)スルヤ第1回演奏会 父龍之介自殺。
1928(昭3)橋本國彦『笛吹き女』
1929(昭4)小林多喜二蟹工船
1930(昭5)伊藤昇『マドロスの悲哀への感覚』『シロカニぺランランピシカン』 この頃兄たちと父の書斎にあったストラヴィンスキーのレコードを聴いて遊ぶ。
1931(昭6)満州事変
1932(昭7)満州国建国宣言 東京高等師範学校附属小学校入学。
1933(昭8)国際連盟脱退
1934(昭9)大澤寿人『交響曲第2番』
1935(昭10)川端康成「雪国」 1/31愛媛県に生まれる。
1936(昭11)2・26事件 ヴァイオリンを買ってもらう。
1937(昭12)盧溝橋事件
1938(昭13)草野心平「蛙」、サルトル「嘔吐」 東京高等師範学校附属中学校入学。
1939(昭14)大日本音楽著作権協会設立
1940(昭15)紀元2600年太宰治走れメロス
1941(昭16)12/8太平洋戦争始まる 大瀬国民学校入学。 井口基成にピアノ、橋本國彦に理論を学ぶ。肋膜炎で療養生活。
1942(昭17)ミッドウェー海戦
1943(昭18)学徒出陣、谷崎潤一郎細雪 東京音楽学校予科入学。
1944(昭19)レイテ沖海戦 父死去。夏に大洪水。 東京音楽学校本科から、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。
1945(昭20)8/15終戦 東京音楽学校本科2年に復学。
1946(昭21)小林秀雄「モオツアルト」 伊福部昭東京音楽学校作曲科講師就任。深く傾倒し師事。
1947(昭22)竹山道雄ビルマの竪琴 大瀬中学入学。 東京音楽学校本科卒業、研究科進学。
1948(昭23)斎藤秀雄ら子供のための音楽教室開設 『交響三章』
1949(昭24)三島由紀夫仮面の告白」、深井史郎『平和への祈り』 東京音楽学校研究科修了。
1950(昭25)朝鮮戦争始まる エッセイ「『罪と罰』について」。愛媛県立内子高校入学。 『交響管弦楽のための音楽』
1951(昭26)黒沢明監督「羅生門ヴェネチア映画祭でグランプリ 愛媛県松山東高校へ転校。伊丹十三と出会う。 肋膜炎再発、入院。
1952(昭27)対日平和・安保両条約発効 『マイクロフォンのための音楽』
1953(昭28)池野成『ダンス・コンセルタンテ』、林光『交響曲ト調』 高校卒業、東京の予備校に通う。 『トリプティーク』『煙突の見える場所』
1954(昭29)第5福竜丸水爆実験被災、伊福部昭シンフォニア・タプカーラ』 東京大学文科二類入学。東大学生演劇脚本を書く。 ソ連・中国旅行。三人の会結成。 『交響曲第1番』
1955(昭30)第1回原水禁世界大会 サルトル安部公房を愛読。
1956(昭31)国連加盟、日ソ国交回復 仏文科進級、主任教授渡辺一夫 東南アジア・ヨーロッパ旅行。新交響楽団結成、音楽監督・指揮者。
1957(昭32)井上靖天平の甍」 「死者の奢り」他。朝日放送ラジオドラマ「遊園地」 『双子の星』
1958(昭33)林光『原爆小景』 「飼育」により芥川賞 エローラ交響曲
1959(昭34)安保改定阻止運動 東大卒業。武満徹と親交。
1960(昭35)安保条約強行採決 伊丹ゆかりと結婚。安保批判会に参加。 暗い鏡
1961(昭36)東京文化会館落成 欧州ソ連旅行。
1962(昭37)安部公房砂の女
1963(昭38) 長男光誕生。広島訪問。
1964(昭39)東京オリンピック米原佐世保寄港 ヒロシマ・ノート」連載、「個人的な体験」 アメリカ旅行。『赤穂浪士
1965(昭40)井伏鱒二「黒い雨」 ヒロシマ・ノート」刊行。
1966(昭41)アジア太平洋会議設立、遠藤周作「沈黙」
1967(昭42)入野義朗・石井眞木ら日独現代音楽祭開催 万延元年のフットボール ヒロシマのオルフェ』。新響とソヴィエト旅行。
参考文献日本史分類年表 机上版」(東京書籍、1989) 篠原茂「大江健三郎文学事典」(森田出版、1998) 芥川也寸志年譜・作品目録」(日本近代音楽館、1995)