ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

大木惇夫『緑地ありや』第6章

言はむ術(すべ)もあらじ、
ただに泪おちぬ、
青き空を指して
道を尽くしたれば


雪と岩と茨
傷み 歎き越えて
到りがたき極み、
山よ、山よ、山よ。
    ― 断道

 上京した大木は小さな出版社で雑誌編集の仕事に就き、夜は正則英語学校で英語を学びました。取材で坪内逍遥や今井邦子、根津嘉一郎など文士や名士を訪問して記事を書いたりしますが、田舎者のためか社内で冷遇されてしまいます。大木の才能を認めていた社長は、博文館からの求人があることを伝え、紹介状を書いてくれました。(博文館は当時飛ぶ鳥を落とす勢いの出版社でした。)履歴書と紹介状を持って博文館へ向うと即日採用となり、取材のほか外国雑誌を片端から読んで翻訳記事を書く仕事などをこなしました。以前博文館にいた尾崎紅葉巌谷小波徳田秋声田山花袋といった文士たちの話題などで同僚とも話がはずみ、書いた原稿が真っ赤に直される厳しい職場ながら、水を得た魚のように仕事に励みました。閑静な所へ引っ越すのに旧知の今井邦子夫人(歌人)の世話になり、夫人の影響でキリスト教会へ通い始め、洗礼を受けました。
 ある日家に泥棒に入られ持ち物をすっかり盗まれますが、恵子からの手紙の一束は無事でした。そこへ恵子から、帰国したという手紙が届きます。渡米後ずっと肺結核の病身で、信仰の生活に入り、療養を口実に帰ってきたとのこと。