ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

1958年から1960年春までの大江健三郎

大江健三郎の軌跡を『大江健三郎文学事典』から抜粋してみました。学業の傍ら旺盛な執筆活動をしているのがよくわかります。そして卒業・転居・結婚と、人生の大きな転機でもあったこともうかがえます。武満徹との出会いもこの時期です。(『暗い鏡』の執筆は1959年半ばと考えられるのですが、この作品は出版されていないためか、下記の記述は初演の日付を採っていると思われます。同様に『ヒロシマのオルフェ』の初演年月日も異なっています。)芥川也寸志との関係はこちらを参照ください。

1958年(昭和33年)23歳

1月 「飼育」。
2月 「人間の羊」、「運搬」。
3月 「鳩」。最初の短編集『死者の奢り』文芸春秋社より刊行。
6月 「芽むしり仔撃ち」、「見る前に跳べ」。『芽むしり仔撃ち』講談社より刊行。
7月 「暗い川おもい櫂」。「飼育」により第39回芥川賞を受賞
8月 「鳥たち」(のち「鳥」と改題)。
9月 「不意の唖」、「喝采」、「戦いの今日」。
10月 短編集『見る前に跳べ』新潮社より刊行。
この年、強度の睡眠薬中毒にかかる。また、8月に起きた小松川高校女生徒殺害事件に関心を持ち、4年後の作品「叫び声」に反映することになる。

1959年(昭和34年)24歳

1月 ラジオドラマ「北の島」(3月20日NHK放送)の取材のため礼文島に旅行。「夜よゆるやかに歩め」、エッセイ「戦後世代のイメージ」。
3月 東京大学文学部フランス文学科卒業卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」。
6月 「部屋」。
7月 「ここより他の場所」、書き下ろし長編『われらの時代』中央公論社より刊行。
8月 「共同生活」、「青年の汚名」、長編『夜よゆるやかに歩め』中央公論社より刊行。新潮文庫『死者の奢り・飼育』刊行。江藤淳の司会でシンポジウム「発言」に参加(出席者:浅利慶太石原慎太郎大江健三郎城山三郎武満徹谷川俊太郎、羽仁進、山川方夫吉田直哉)、論文「現実の停滞と文学」を提出(『三田文学』10月号)、全体の討論は『三田文学』11月号に掲載。以後、武満徹と親交を結ぶ。
11月 「上機嫌」。
12月 エッセイ「われら性の世界」。
この年、世田谷区成城町に転居ドストエフスキーを読み、『カラマーゾフの兄弟』『白痴』に感銘を受ける。

1960年(昭和35年)25歳

1月 「勇敢な兵士の弟」。
2月 「報復する青年」。伊丹ゆかり(故伊丹万作の長女で、友人伊丹十三の妹)と結婚
3月 「後退青年研究所」、ラジオ・オペラ台本「暗い鏡」執筆(加筆して芥川也寸志作曲のオペラ「ヒロシマのオルフェ」として1985年にモスクワで初演)。この頃、安保条約改定阻止のため<安保批判会>および<若い日本の会>に参加。
4月 「孤独な青年の休暇」

出典:篠原茂著『大江健三郎文学事典:全著作・年譜・文献完全ガイド』 森田出版 1998