ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

「100年目の12音音楽」を聴く

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クラシックの迷宮「100年目の12音音楽」

片山杜秀さんのNHK-FM「クラシックの迷宮」、昨日は「100年目の12音音楽」と題し、12音音楽を確立したシェーンベルクの音楽が取り上げられました。彼が最初に12音音楽のアイデアを表明したのが1921年だという逸話が紹介され、今年はそれから100年目という訳です。日本における12音音楽の先駆者と言われる入野義朗もこの年に生まれているので、今年は入野の生誕百年であることも言及されました。放送された「月に憑かれたピエロ」は入野義朗の指揮でしたので、1954年10月9日の実験工房の公演と思われます。

NHK-FM クラシックの迷宮
2021年2月13日  午後9時00分~ 午後10時00分
▽100年目の12音音楽

  • 「5つの管弦楽曲 作品16(室内管弦楽版) から 第4曲“転機”」/ シェーンベルク:作曲 ; フェリックス・グライスレ:編曲 (管弦楽)グルッポ・モンテベッロ、(指揮)ヘンク・グイッタルト(2分15秒)<ETCETERA KTC 1484>
  • 「5つのピアノ曲 作品23 から 第5曲“ワルツ”」/ シェーンベルク:作曲 (ピアノ)チェン・ピーシェン (2分25秒)<hat(now)ART 125>

https://www4.nhk.or.jp/classicmeikyu/x/2021-02-13/07/74167/4756423/

作曲家・入野義朗

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入野義朗書誌と没後20周年コンサートのプログラム

第37回演奏会でとりあげる入野義朗関連のブログ記事をまとめておきます。入野は日本における12音音楽の導入者として知られていますが、その経歴をたどってみると、自身の創作活動に留まらず、音楽関係イベントのオーガナイザーとして、国際交流のキーマンとして、音楽家の権利擁護の活動家として、そしてなにより教育者として実に多彩な活動を実践してきたことが浮かび上がります。没後20周年コンサートのパンフレットに音楽学者長木誠司が次のように語っているのが印象に残りました。

 入野義朗について語るとき、まず彼を日本における12音技法の教祖のように見なすのは、亡くなった20年前ならともかく、もうやめよう。それは60年代までに培われ、その後ただ反復されてきた「見立て」に過ぎない。その生涯は、12音という切り口よりも、むしろ別の形で生き続けているのだから。ACLのなかに、そして彼が長年熱意をもって携わっていた教育活動のなかに。(長木誠司 東京大学助教授)
(注:ACL=Asian Composers League=アジア作曲家連盟)

■参考

古関裕而の本とCD

古関裕而について参考にしたのは、去年出た次の本です。著者は1977年生まれ、日本近代史を専攻する研究者で、NHK「エール」の風俗考証を担当していました。読みやすくわかりやすいです。

古関裕而の評伝は他にも何冊か出ていますが、今年に入ってからもなんと5冊もありました。(5月時点)

  • 長尾剛古関裕而 応援歌の神様:激動の昭和を音楽で勇気づけた男』 PHP文庫 2020年2月
  • 青山誠『古関裕而:日本人を励まし続けた応援歌作曲の神様』 中経の文庫 2020年2月
  • 辻田真佐憲『古関裕而の昭和史:国民を背負った作曲家』文春新書 2020年3月
  • 菊地秀一『古関裕而・金子:その言葉と人生』(古関正裕 監修)宝島社 2020年3月
  • 古関正裕『君はるか : 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル 2020年2月

このほか漫画や楽譜や「エール」関連のものなどいろいろ出版されています。
また1980年に出た自伝は、昨年文庫で再刊されています。

しかしいくら文字で生涯を追っても、音楽が聴こえてこないと今一つよくわかりません。そこで役に立つのが今年4月に出た次のCDです。

2枚組で歌謡曲が17曲、スポーツ、戦時歌謡NHKラジオ音楽が計17曲、合計34曲はいっています。「オリンピックマーチ」は陸上自衛隊中央音楽隊演奏の吹奏楽版。

コロムビアの特設ページもありました。

NHK「エール」ですが、オリンピック自体は延期になったものの、在宅で過ごす人が増えたためか視聴率はよかったようです。作曲家が主人公のドラマは珍しく、演奏する曲の背景がいろいろわかったことでした。

古関裕而『オリンピックマーチ』初演

オリンピック組織委員会NHKの委嘱で作曲された古関裕而の『オリンピックマーチ』は、1963年6月23日に上野の東京文化会館で初演されました。この演奏会は「オリンピックデー クーベルタン生誕100周年記念」というイベントの一環でした。

「オリンピックデー」というのは、クーベルタン男爵(1863-1937)が提唱したオリンピックの復興が、1894年6月23日にパリで開催された国際会議で決定され、国際オリンピック委員会IOC)が創設された日を記念するものです。その後この日に各国で関連イベントが実施され、1964年の東京大会前年の1963年6月23日、東京ではまず12時半から13時半まで上野広小路から上野公園に向かって、陸上自衛隊スポーツ少年団などがパレードをしました。

そして14時から式典があり、皇太子殿下(現・上皇さま)のおことばを始め関係者の挨拶が続きました。次に「第一部 オリンピックの歌当選発表と表彰」があり、その中で今井光也「オリンピックファンファーレ」、團伊玖磨「オリンピック序曲」に続き、古関裕而「オリンピックマーチ」が披露されたのでした。演奏はNHK交響楽団、指揮は岩城宏之でした。

イベントはこの後「オリンピック賛歌」や「東京五輪音頭」の発表があり、「第二部 青春をたたえる歌」では「東京オリンピックの歌」など13曲がソロ、合唱、管弦楽の演奏で行われました。終了は16時半でした。

ニッポニカが第37回演奏会で演奏するのは、この時の管弦楽版「オリンピックマーチ」です。

※参考
・「オリンピックデー クーベルタン生誕100周年記念」プログラム
現代日本管弦楽作品表<1912~1980>(『フィルハーモニー』特別号(53巻9号))

古関裕而~オリンピックまで

36歳で終戦を迎えた古関裕而は、歌謡曲をはじめ、菊田一夫らの縁でNHKのラジオドラマや東宝ミュージカルの曲など次々に作曲していきました。「鐘の鳴る丘」「長崎の鐘」「高原列車は行く」など曲名だけでもその雰囲気が伝わってきます。ドラマ「君の名は」、NHK「ひるのいこい」の音楽なども古関の作曲でした。

メコン舟歌」「ゴビの砂漠」「ガンヂス河は流れる」といった歌や、東宝映画「モスラ」、ミュージカル「敦煌」の音楽などは、戦争中の中国や東南アジアでの見聞が反映しているようです。

古関自身はスポーツが苦手だったそうですが、NHKスポーツ番組「スポーツショー行進曲」や甲子園で歌われる「栄冠は君に輝く」、また「巨人軍の歌」などを作っています。そして1963年(昭和38)に作曲したのが「オリンピックマーチ」です。管弦楽版の初演は1963年6月でした。それが吹奏楽版に編曲され、翌1964年10月の東京オリンピック開会式で演奏されたのでした。もっとも管弦楽版については世間的に忘れられていますので、NHK「エール」ではオリンピックの前年に作曲していたことがちらっと触れられただけでした。

古関裕而年譜その3:1946-1964|ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ 2020-05-12
https://nipponica-vla3.hatenablog.com/entry/2020/05/12/155232

※参考
刑部芳則古関裕而:流行作曲家と激動の昭和』中公新書、2019
現代日本管弦楽作品表<1912?1980>(『フィルハーモニー』特別号(53巻9号))

古関裕而の戦中時代

古関裕而は21歳で東京に出てコロムビアの専属作曲家となりましたが、同期の古賀政男のようにヒット連発とはいきませんでした。この頃で有名なのは早稲田大学の応援歌『紺碧の空』や、『大阪タイガースの歌(六甲おろし)』です。

上京した翌1931年に満州事変があり、日本は戦争の時代に突入していきます。その中で古関夫婦は1937年に満洲旅行をし、帰途下関から東京までの列車内で作曲したのが『露営の歌』。「勝ってくるぞと勇ましく」で始まる歌は大ヒットし、多くの兵士たちに愛唱されました。日中戦争に従軍した私の父も、戦後歌っていたのをかすかに覚えています。

戦時中は多くの芸術家が戦地へ慰問に赴きましたが、古関も1938年に中国中部、1942年にシンガポールビルマ、1944年にサイゴンへ従軍しました。1938年の時は深井史郎や西条八十も一緒でした。この時期には『暁に祈る』『ラバウル海軍航空隊』『嗚呼神風特別攻撃隊』などを作曲しています。

こうした戦時歌謡のほか、映画音楽も次々作りますが、あまりヒットしなかったようです。そして1945年3月、古関に召集令状が届きます。福島県の連隊が本名「古関勇治」を作曲家と知らず発行したとのこと。それにより古関は横須賀海兵団に1か月ほど入隊しましたが、そこは芸術家や学者ばかりの特殊部隊だったそうです。

古関の家族は福島に疎開していたので、8月に入って古関も福島に向かい、仕事で東京へ戻ったのが15日の午前11時ころ。駅で玉音放送を聴き、戦争が終わりました。

古関裕而年譜その2:1931-1945|ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ 2020-05-08
https://nipponica-vla3.hatenablog.com/entry/2020/05/08/131638

※参考
福島市古関裕而記念館|作曲一覧
  (曲名で検索すると、作詞者、発売年月日、歌手などがわかります。)
  https://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/person/composition/song-a.html
  
刑部芳則古関裕而:流行作曲家と激動の昭和』中公新書、2019

古関裕而の師、金須嘉之進

今年のNHK朝ドラ「エール」では、古山裕一 こと古関裕而が作曲コンクールに入選したことはでてきましたが、当時古関が師事した人物については言及がありませんでした。

古関は福島の小学生の時に担任から童謡作曲の手ほどきを受けたとか、商業学校時代に入っていたハーモニカサークルの指導者の薫陶を受けたとかは出てきました。その後川俣銀行に就職し、しばらくしてコンクールに応募して入賞するわけですが、この時期に師事したのが金須嘉之進(きす・よしのしん、1866-1951)です。

仙台生まれの金須は15歳の時、駿河台の正教会神学校に入学します。仙台はロシア正教布教の拠点のひとつだったので、おそらく両親が熱心な信者だったのでしょう。1891年25歳になった金須は、ロシアのペテルブルクにある帝室合唱団附属合唱学校に留学し、リムスキー=コルサコフに師事した唯一の日本人となりました。1894年まで熱心に音楽を学び、帰国後は神田に音楽塾を開設。ヴァイオリン、オルガン、楽典、和声、ソルフェージュを教えるかたわら、ワグネル・ソサエティーも指導し、1904年には慶應義塾の最初の塾歌を作曲(現在のは1941年の別の曲)。その後満鉄のロシア語通訳としてパルビンに赴いたり、多くの聖歌を日本語に翻訳したりしました。

1923年の関東大震災の後、57歳の金須は仙台に移り、地元の学校で音楽を教えたり、仙台ハリストス正教会聖歌隊の指導もしていました。そして1928年ころに、当時川俣にいた古関裕而が、仙台まで金須の指導を受けに通っていたのです。福島と仙台を結ぶ阿武隈急行線ができたのは戦後ですので、当時は東北本線に乗って通ったのでしょう。古関は金須から、リムスキー=コルサコフ直伝の音楽を学んだわけです。コンクールの入賞は1929年末ですので、金須の指導が見事に活きたのだと思います。

金須はその後1939年に東京・大森に、1943年に鎌倉に移り、晩年は駿河台のニコライ堂で再び指導していたそうです。1950年に84歳で亡くなりました。

古関裕而年譜その1:1909-1930|ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ 2020-05-01
https://nipponica-vla3.hatenablog.com/entry/2020/05/01/102218

※参考
・日本の作曲家:近現代音楽人名事典. 日外アソシエーツ、2008
刑部芳則古関裕而:流行作曲家と激動の昭和』中公新書、2019
・[ステンドグラス] 塾歌に歴史あり 1904(明治37)年制定の旧塾歌とその周辺|慶應義塾
https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2014/282.html
NHK「エール」https://www.nhk.or.jp/yell/

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