ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

古関裕而の戦中時代

古関裕而は21歳で東京に出てコロムビアの専属作曲家となりましたが、同期の古賀政男のようにヒット連発とはいきませんでした。この頃で有名なのは早稲田大学の応援歌『紺碧の空』や、『大阪タイガースの歌(六甲おろし)』です。

上京した翌1931年に満州事変があり、日本は戦争の時代に突入していきます。その中で古関夫婦は1937年に満洲旅行をし、帰途下関から東京までの列車内で作曲したのが『露営の歌』。「勝ってくるぞと勇ましく」で始まる歌は大ヒットし、多くの兵士たちに愛唱されました。日中戦争に従軍した私の父も、戦後歌っていたのをかすかに覚えています。

戦時中は多くの芸術家が戦地へ慰問に赴きましたが、古関も1938年に中国中部、1942年にシンガポールビルマ、1944年にサイゴンへ従軍しました。1938年の時は深井史郎や西条八十も一緒でした。この時期には『暁に祈る』『ラバウル海軍航空隊』『嗚呼神風特別攻撃隊』などを作曲しています。

こうした戦時歌謡のほか、映画音楽も次々作りますが、あまりヒットしなかったようです。そして1945年3月、古関に召集令状が届きます。福島県の連隊が本名「古関勇治」を作曲家と知らず発行したとのこと。それにより古関は横須賀海兵団に1か月ほど入隊しましたが、そこは芸術家や学者ばかりの特殊部隊だったそうです。

古関の家族は福島に疎開していたので、8月に入って古関も福島に向かい、仕事で東京へ戻ったのが15日の午前11時ころ。駅で玉音放送を聴き、戦争が終わりました。

古関裕而年譜その2:1931-1945|ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ 2020-05-08
https://nipponica-vla3.hatenablog.com/entry/2020/05/08/131638

※参考
福島市古関裕而記念館|作曲一覧
  (曲名で検索すると、作詞者、発売年月日、歌手などがわかります。)
  https://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/person/composition/song-a.html
  
刑部芳則古関裕而:流行作曲家と激動の昭和』中公新書、2019