ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

古関裕而の師、金須嘉之進

今年のNHK朝ドラ「エール」では、古山裕一 こと古関裕而が作曲コンクールに入選したことはでてきましたが、当時古関が師事した人物については言及がありませんでした。

古関は福島の小学生の時に担任から童謡作曲の手ほどきを受けたとか、商業学校時代に入っていたハーモニカサークルの指導者の薫陶を受けたとかは出てきました。その後川俣銀行に就職し、しばらくしてコンクールに応募して入賞するわけですが、この時期に師事したのが金須嘉之進(きす・よしのしん、1866-1951)です。

仙台生まれの金須は15歳の時、駿河台の正教会神学校に入学します。仙台はロシア正教布教の拠点のひとつだったので、おそらく両親が熱心な信者だったのでしょう。1891年25歳になった金須は、ロシアのペテルブルク音楽院に留学し、リムスキー=コルサコフに師事した唯一の日本人となりました。1894年まで熱心に音楽を学び、帰国後は神田に音楽塾を開設。ヴァイオリン、オルガン、楽典、和声、ソルフェージュを教えるかたわら、ワグネル・ソサエティーも指導し、1904年には慶應義塾の最初の塾歌を作曲(現在のは1941年の別の曲)。その後満鉄のロシア語通訳としてパルビンに赴いたり、多くの聖歌を日本語に翻訳したりしました。

1923年の関東大震災の後、57歳の金須は仙台に移り、地元の学校で音楽を教えたり、仙台ハリストス正教会聖歌隊の指導もしていました。そして1928年ころに、当時川俣にいた古関裕而が、仙台まで金須の指導を受けに通っていたのです。福島と仙台を結ぶ阿武隈急行線ができたのは戦後ですので、当時は東北本線に乗って通ったのでしょう。古関は金須から、リムスキー=コルサコフ直伝の音楽を学んだわけです。コンクールの入賞は1929年末ですので、金須の指導が見事に活きたのだと思います。

金須はその後1939年に東京・大森に、1943年に鎌倉に移り、晩年は駿河台のニコライ堂で再び指導していたそうです。1950年に84歳で亡くなりました。

古関裕而年譜その1:1909-1930|ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ 2020-05-01
https://nipponica-vla3.hatenablog.com/entry/2020/05/01/102218

※参考
・日本の作曲家:近現代音楽人名事典. 日外アソシエーツ、2008
刑部芳則古関裕而:流行作曲家と激動の昭和』中公新書、2019
・[ステンドグラス] 塾歌に歴史あり 1904(明治37)年制定の旧塾歌とその周辺|慶應義塾
https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2014/282.html
NHK「エール」https://www.nhk.or.jp/yell/