ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

菅原明朗と深井史郎(その2)

 『菅原明朗 : 日本の交響作品展 5 』のプログラムに掲載されていた秋山邦晴さんのインタビューの中から、深井史郎に関するところの抜粋その2です。(その1)はこちら

永井荷風とのオペラ<葛飾慕情>のころ
(前略)
―――深井史郎さんは、さきほど話にもでた山田耕筰信時潔の時代は十九世紀的な歌曲の時代から一歩も前進していないと、つぎのように書いたことがありますね。
 「山田も信時も、残念ながら器楽的な技術を第二次的なものとしてしか身につけていなかった」。そして師である菅原明朗は当時「歌曲の分野からもう一歩前進して、器楽曲、オーケストラ曲の分野をきりひらいた」ひとであると書いています。そして「ドイツ派に対して、フランス派は、まず菅原が闘士だった」ともいっています。そして「明瞭に器楽的なデッサン」を師から受けついで、新しく展開していななくてはならない、というようなことを書いていた。
●菅原:オーケストラのない国でオーケストラの曲は書けませんよ。山田さんとぼくとのあいだには十年のひらきがあると、さきほどいいましたが、かれが作品を演奏するときにはどうしたか。まずオーケストラをつくることから手をつっけなければならなかった。そうすると、一曲自分が発表するときに、どれほど負債ができるか。大変な努力ですよ。10年後の私の時代には作曲すれば演奏できた。その心配はなかった。ただし収入はありませんでした。さらに10年あまり後の深井の時代には、収入というものが、まがりなりにも、もう手にできたんです。こうした社会的な条件を無視して物事を考えちゃいけないのですよ。(後略)