ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

ヴァイル作曲『イエスマン』とプリングスハイム、あるいは「西と東」

 クラウス・プリングスハイムの伝記の中に、クルト・ヴァイルの作曲した『イエスマン』(1930)が出てきました。台本は『三文オペラ』と同じブレヒトで、能の『谷行(たにこう)』に基づいて作られたものです。

 ブレヒトの物語はこうである。少年は母の病気治療のために、山向こうの町に薬を取りに行く目的で、師と弟子の企てた研究旅行(原作では山伏の修行)に参加する。しかし、旅の途中、激しい山越えの行程で少年は力尽きる。山越えで脱落者がでたときには、古い「掟(大法)」がある。それは、旅行の目的を達成するために、他の者が脱落者を谷底に投げ込むというものである。弟子たちは少年に尋ねる。掟に従うことを諒承するかどうか……少年は諒承し、谷に投げ込まれる。(p40)

 ベルリンでこの作品に接したプリングスハイムは、来日後の1932年7月2日、東京音楽学校奏楽堂で日本初演しています。

 そして彼は念願のオペラ上演を果たす。ヴァイルの音楽付き『イエスマン』。演出および指揮はクラウス自身。宝井氏は三人の弟子のひとりとして登場する。そして少年を増永丈夫(藤山一郎)氏、師を伊藤武雄、母親を武田恵美。オーケストラと合唱は、もちろん音楽学校の学生たち。歌は原語。当時の舞台写真からもわかるように、奏楽堂の舞台は三つに区切られて、舞台上手にはオーケストラ、下手には合唱が陣取り、舞台中央が演技の場とされた。舞台装置はなし、舞台中央のパイプオルガンを隠す幕が垂らされただけだった。(p46-47)

 文中の宝井氏とは、当時クラウス・プリングスハイムともっとも親しかった学生のひとりの声楽家・宝井真一氏。1932年といえばクラウスがマーラーの5番を初演した年ですから、山田和男青年もおそらくこのオペラを観ていたと思われます。


出典:早崎えりな『ベルリン・東京物語:音楽家クラウス・プリングスハイム』(音楽之友社、1994)
クルト・ヴァイル(Kurt Weil, 1900-1950)
ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)
イエスマン』は元のドイツ語では『Der Jasager(ヤーザーガー)』、日本語では『承諾者』と『クラシック音楽作品名辞典』に出ていました。