『日本洋楽外史』第2章は「明治から大正へ」。オペラ、山田耕筰、奏楽堂、音楽雑誌、軍楽隊などが話題にのぼります。
■日本洋楽外史 : 日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史 / 野村光一,中島健蔵,三善清達(ラジオ技術社,1978)
以下、この時代は野村光一氏の独壇場です。
野村「〜(帝国劇場は)歌劇部というのをこしらえ、清水金太郎とかそういう人たちを集めてオペラをやろうとした。けれども、すぐにはできないので、しかたなくオペレッタを始めたんですよ。そのためにイタリアからローシーという演出家を呼んできたんだけれど、これがどうもうまくいかない。それで歌劇部の連中の首をみんな切ってしまった。だもんだから、彼らは赤坂のローヤル館に立てこもってオペラを引き続きやったんだけれども、経済的に成り立たない。そこで全部浅草へ移っていったんですね。そこへ藤原義江や田谷力三なんかが加わって、つまり「浅草オペラ」を盛んにしたわけで、これが西洋音楽を民衆に広めるための一つの糸口になったんだと思いますね。」(p49-50)
野村「〜第一次大戦が始まって山田耕筰先生がその直前にベルリンから帰ってこられてね、[三越少年]音楽隊のヴァイオリンの連中や海軍々楽隊のブラスや打楽器の連中を一緒にして日本フィルハーモニーを作られた。これが日本の民間オーケストラのはじまりですね。」(p53)[注:この「日本フィルハーモニー」は、「東京フィルハーモニー会管弦楽部」のこと]
野村「私も一生懸命東京音楽学校の奏楽堂に通いましたけどね、ここに集まった本当に純粋に西洋音楽ファンというのは、今見られるような若い学生じゃないんですよ。文学者とか画家、音楽家、美術学校や音楽学校や帝国大学なんかを卒業した、いわゆるインテリだな。それが上野の音楽学校系の聴衆層でね、もうひとつはさっきの浅草オペラだとか映画館のオーケストラの聴衆だよ。この二つの流れがあったと思うな。」(p54-55)
野村「東京音楽学校で出していた『音楽』という雑誌があったな。これは牛山充さんの編集になるものだ。ところがドイツ音楽一辺倒なものだから、そこでわれわれ−大田黒元雄、堀内敬三、私なんかが第一次大戦中に『音楽と文学』というのを出して、ドビュッシー、スクリアビンからプロコフィエフに至るまで、新しい西洋の楽壇事情を紹介したんだよ。反抗したわけだ。」(p63-64)
野村「海軍の軍楽隊は[東京]音楽学校へ出てたけど、[陸軍]戸山学校は別の組織で上野とは関係がなかったしね。それにお上の学校であるには違いないんだけれども、海軍のほうが官立に近くて戸山学校は民間的色彩なんだ。そこに民間人であった堀内の進言が非常に多かったのです。」「〜海軍はイギリスかドイツへ行った。それに対して陸軍はフランスへ行ったんですよ。それで反対の方向になったんじゃないかと思うな。だから大沼[哲]さんなんかはフランスへ留学してギャルド・レピュブリケーヌに入った」(p67)