ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『続・私の半生記』:コロンビア大学へ

 震一はジュリアード音楽院作曲科の入学試験に合格しましたが、ジュリアードは声楽、器楽が主体の専門学校で、作曲は基礎的な理論である和声や対位法程度の科目しか開講されていませんでした。そこで保証人のニューヨーク現代美術館館長ホイラー氏に相談に行きました。

コロンビア大学とニュースクール
…氏は一夕、自宅に六、七人の人々を集め、私の進学方法について考えてくれた。その夜、私も楽器同伴で同席したのである。リンカーン某というニューヨーク市バレエ協会長、サミュエル・バーバー(作曲家)、オリヴァ・ダニエル(アメリカ作曲協会理事長)、アーロン・コープランド(作曲家)、グレンウェイ・ウェスコット(文学者・小説家)の人々が参集した。(中略)
 この席で、今も想い出すのは、サミュエル・バーバー氏のことである。それは、一同に所望され、私が「千鳥の曲」を歌い弾きした時であった。私が全曲弾き終えて一礼するや、バーバー氏が『大変に失礼だけど、今の曲を全く同じに演奏できますか。』と尋ねた。私はすかさず答えて『全曲正確に暗譜しています。』『では最初の歌の部分をもう一度聴かせて下さい。』ということで、私は再び弾き歌い、手事の前まで終えた。氏は大変に驚嘆され、私に記譜法のことについて質問されたのであった。その後、ご一同は大分長い間、話し合われ、結論を出された。ダニエル氏が電話にむかわれ、『みんなの意見だよ、ヘンリー。そうそう。うん、ではそうするから。』というようなエンディングで受話器を置いた。
 満場一致で私をヘンリー・カウエル氏に紹介することとなり、その翌日、午後六時、コロンビア大学のミュージック・デパートメントでカウエル教授に面接することになったのである。
 コロンビア大学レジスターレションは数日前に終っていたが、カウエル先生の特別のお計らいで、無事、私はコロンビア大学のポスト・グラジュエート・コースで学べるようになったのである。

引用:唯是震一『神仙調舞曲:続 私の半生記』(砂子屋書房、1988)p161-162より