ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『続・私の半生記』:ジュリアードを受ける

 1953年(昭和28)芸大を卒業した震一は米国留学を志し、カーチス音楽院とジュリアード音楽学校に願書をだしました。カーチス音楽院からは25歳の年齢制限をオーバーしていて資格が無いという返事で、ジュリアードの試験を目指して8月に貨物船に乗って渡米しました。10日ほどの船旅でサンフランシスコに着き、飛行機でニューヨークに入りました。以下実家に送った手紙からの抜粋です。(挿絵の貨物船はp117より)

一九五三年九月十七日(木)礼子姉上へ
…入学試験(ジュリアード音楽院作曲科)は今日だったのです。九日に名前をリストしに行った時、封書を渡され、十七日にテストをするが、よしあしを書いてポストせよという葉書が同封されていました。それで今日、十二時十五分から試験。要領は一人ずつ約束の時間までに、所定の部屋の前に行き、三十分も待たされずに、中に入って四人の試験員に握手をし、友だちの様な口調で、前に送ってあった作品に就いて質問がありました。次に音楽理論、ハーモニー、聴音(ピアノで叩く和音や音程を答えるのです)のテストでした。筝を持っていましたので、「神仙調舞曲」を全楽章弾かされました。四人は目を丸くして、興奮し、絶賛していました。けれども、小生は筝のテストを受けるのではなく、要は作曲科へのテストである筈なので、二十三日の発表までは合否のいずれかはわかりません。
 午後三時からは口頭試問でした。委員は副総長らしい人(他人の説)が一人坐っていて、音楽経験や小生の音楽に対する意見などを聞き、またピアノで叩く和音のテストをして終りました。

引用:唯是震一『神仙調舞曲:続 私の半生記』(砂子屋書房、1988)p155-156より