ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『続・私の半生記』:カウエル先生とストコフスキー氏

 こうして震一はヘンリー・カウエル氏の教えているコロンビア大学とニュースクール フォア ソシアル リサーチで、氏に弟子入りすることになりました。「作曲・管弦楽法」「リズムの研究」「ジャズの鑑賞」「英文法」「フランス語」「対位法」「版画の研究」「現代音楽の研究」の諸科目を学びました。この中の「リズムの研究」は先生の奥様が担当されていたので、ご夫妻と大変親しくお付き合いさせていただくことが出来ました。クリスマスにはカウエル先生の弟子の一人ジョン・ケージ氏にすきやきをご馳走し、「俳句」という作品をプレゼントされました。
 ジャパン・ソサエティーでの筝を弾くアルバイトでは、指揮者のローゼンストック氏が聴いてくれました。演奏会に通ったり、様々な家庭に招かれたり、充実した留学生活でした。1953年(昭和28)12月には小協奏曲を発表する機会がありました。またオリヴァー・ダニエル氏宅のディナーで、指揮者ストコフスキー氏に筝を聴いていただくことになりました。

一九五四年一月四日(木)
…以前、日本で、近衛秀麿氏に宛てた手紙が音楽新聞で発表されたのを読んだことがあって、ストコフスキー氏は日本のモダーン音楽は戴けないということが書かれてあったので、小生は六段の調べと千鳥の曲、夕顔といった古典ばかりを弾きました。ストコフスキーは何か自作の曲を聞きたいと所望されたので、神仙調舞曲を演奏しました。氏は大いに感動され、今迄にオーケストラと協演する作品を書いたかという質問をされました。ここぞとばかり、コンチェルトのことを申しあげると、そのスコアを見たいとおっしゃいました。

 ストコフスキー氏は震一の曲を大変気に入り、カーネギーホールで演奏会をやろうと計画してくださいました。しかしながら残念なことに演奏団体のストライキと重なり、この計画は流れてしまいました。

引用:唯是震一『神仙調舞曲:続 私の半生記』(砂子屋書房、1988)p194より。写真は口絵の「恩師ヘンリー・カウエル先生」