ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

ナディア・ブーランジェ年譜

 『ナディア・ブーランジェとの対話』の巻末に載っていた年譜をもとにまとめてみました。

西暦(年齢) 事項
1887 9月16日、ナディア・ブーランジェ、パリで出生。一家には音楽家が多く、祖母に当たるジュリエット・ブーランジェは有名な歌手であり、父、エルネスト・ブーランジェは、パリ音楽院の作曲家の教授を勤めた。母はロシア人で、ミッチェスキー侯爵家の子女として生まれた。
1893(6歳) 妹、リリー・ブーランジェ誕生。
1897(10歳) パリ音楽院に入学。
1900(13歳) 父、エルネストの死。
1904(17歳) パリ音楽院の和声科、対位法科、オルガンフーガ科、ピアノ伴奏科をそれぞれ1等賞を得て卒業。
1906(19歳) マドレーヌ寺院でオルガニスト、アンリ・ダリエーのアシスタントを勤める。
1908(21歳) ローマ賞受賞。作曲活動、及び各地で演奏活動を行う。
1910(23歳) ガブリエーレ・ダヌンツィオの台本をもとにラウル・ピュノーとの共作で《死の町》を作曲。教育に専念する。
1908〜1918(21〜31歳) パリ音楽院で和声科のクラスを受け持つ。(1913年、リリー・ブーランジェ、ローマ大賞受賞。)
1918(31歳) 3月15日、リリー・ブーランジェの死。
1921(34歳) フォンテンブローのアメリカ音楽院の教授となる。そこで和声、対位法、作曲のクラスを死に至るまで受け持った。同時にパリのエコール・ノルマルで和声、対位法、作曲、音楽史のクラスを受け持ち、最初はポール・デュカースのアシスタントとして、後に専任教授を1939年まで勤める。アメリカへの最初の演奏旅行。その後もたびたび訪れ、演奏会、講習、講義などを行う。
1940〜1946(53〜59歳) アメリカに長期滞在。ボストン交響楽団、ニューヨーク交響楽団の常任指揮者を勤める。
1946〜1957(59〜70歳) パリ音楽院でピアノ伴奏科の教授を勤める。
1950(63歳) フォンテンブローのアメリカ音楽院の院長に就任。
1979(92歳) 10月22日、パリにて死去。生涯を通じてフランス、及び外国で無数の演奏会、講演を行い、同時に世界各国から集まって来た無数の生徒たちに終始プライベートに教え続けた。