島岡譲年譜「その2」は、東京音楽学校復学からパリ音楽院留学までです。
終戦後1946(昭和21)年、島岡は疎開先から上京し、東京音楽学校に復学しました。貧しい生活の中で焼け残ったお茶の水分教場に通い、一日中グランドピアノを弾いて渇きを癒したのでした。
この年の秋、新たに学校に見えた池内友次郎先生に弟子入り。同門に矢代秋雄、黛敏郎の諸君。池内先生から与えられたパリ音楽院の和声課題の見事さに舌を巻き、このようなミニアチュール的音楽世界の魅力の秘密を窮めてみたいとの願いを抱く。あわせて、ドイツ音楽とは異質のフランス近代音楽に開眼。
1948(昭和23)年、池内に勧められて毎日新聞社音楽コンクール作曲部門に応募した管弦楽曲『前奏曲とフーガ ト短調』が、第2位に入賞しました。翌1949年、平尾貴四男の主宰する作曲グループ「地人会」に参加し、平尾の要請でそのアシスタントとして国立(くにたち)音楽大学(当時は高専)に勤めはじめました。また1950年からは池内の要請で東京藝術大学でも教鞭をとりますが、この頃から音楽上の行詰まりに悩むようになりました。
1954(昭和29)年:9月、音楽上の行詰まり打開のため、神戸から貨客船浅間丸でフランスへ向かう。一ヶ月の船旅のあと、秋色濃いパリに着く。早速パリ音楽院に出向き、ノエル・ガロン先生のフーガ・クラスに入門を許される。
1955(昭和30)年:6月、音楽院のコンクールで日本人初のフーガ受賞。外貨制限のため、残念ながら一年で留学を切り上げ、再び航路で帰国。
帰国後、外崎幹二氏の勧めで『和声の原理と実習』の共著に着手。しばしば夜を徹して同書の構想を論じ合う。初めはフランスの和声教科書の焼直しのつもりで出発したが、やがてフランスの直輸入は日本では不適当との認識に変わり、結局、フランスの実践的和声法とドイツの機能的和声理論とを合体させる独自の方向を模索し始める。
出典:島岡譲『山を仰いで』(主婦の友出版サービスセンター制作、1987年)
- 平尾貴四男(ひらお・きしお、1907-1953):作曲家。師は杉山長谷夫、ラウトルップ、弘田龍太郎、大沼哲、ローゼンシュトック他。慶應義塾大学文学部独文科卒、セザール・フランク音楽学校卒。
- ノエル・ガロン(ノエル・ギャロン、Noël-Gallon、1891-1966):フランスの教育者、作曲家。パリ音楽院でソルフェージュ科、対位法とフーガ科を教える。http://www.geocities.co.jp/NatureLand/5390/impressionist/gallon/index.html
- 外崎幹二(とのさき・かんじ、1910-1986):作曲家。師は池内友次郎。日本大学芸術科卒。
- 国立音楽大学:1926年東京高等音楽学院が開校。1947年国立音楽学校と校名変更。1949年国立音楽高等学校設立。1950年国立音楽大学認可。 http://www.kunitachi.ac.jp/introduction/history.html