ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

池内友次郎『父・高濱虚子』(その2)パリ留学時代

 作曲家・池内友次郎の自伝『父・高濱虚子:わが半生記』その2は、パリ音楽院に留学し、二度の帰国をはさんで過ごした20代の10年間です。友次郎はパリでダンディからメシアンまで多彩な音楽家の芸術を吸収すると共に、日本から留学した荻野綾子、平尾貴四男ら数多くの音楽家たちとも交流していました。日本の作曲界では深井史郎を別として清瀬保二らが「日本人の音楽を追及する」風潮でしたが、友次郎はそれに反対で、「西洋音楽の技法を追求しながらその技法によって音楽を書く」という立場で修業を続けたのでした。

西暦(和暦):事項

  • 1927(昭和2):二十歳。1月末に横浜から日本郵船の船でマルセイユへ。列車でパリ着、3月。ポール・フォーシュ先生門下に。 平岡次郎、林龍作、一柳信二[慧の父]、天田光平、荻野綾子と交流、宅孝二とは特に親しくなった。コンセルヴァトワール入学をめざし、レーベルとデュボアの教科書で和声を勉強。 平和なパリ、盛大な音楽会。ダンディ、ラヴェルシェーンベルクシュトラウス、ファリャ、ルーセルプロコフィエフ、ミヨー、オネゲルプーランク、タイユフェール、パデレスキ、パハマン、ザウエル、ラフマニノフ、シャリヤピン、クライスラー、カザルス、ティボー、コルトーらの演奏を聴く。コルトーに傾倒。ペレアスとメリザンドに仰天。
  • 1928(昭和3):10月にコンセルヴァトワール正式入学(初の日本人)。フォーシュ先生のクラス。原智恵子、安川加壽子、平尾貴四男、井口基成、鈴木聡、高木東六、大田黒養二、佐藤美子と交友。
  • 1930(昭和5):三年が過ぎ一時帰国。父の温顔に接し句会を経験。秋にパリへ戻り、ビュッセル教授について作曲を学ぶ。
  • 1932(昭和7):二年半たち、和声のコンクールでプルミエ・アクセシット(準入賞)を得、帰国の決断。鎌倉の家へ。
  • 1933(昭和8):丸ビルに部屋を借り、作曲と和声の教室を開く。荻野綾子依頼の歌曲「櫻」を菅原明朗指揮で演奏。四家文子主催の会で深尾須磨子脚本の劇「リラの花咲くころ」の音楽担当、藤山一郎アコーディオンNHK放送。
  • 1934(昭和9):NHK弦楽四重奏曲放送。日比谷公会堂で作品発表会、鈴木聡、高木東六、原智恵子、プリングスハイム指揮新響で、佐藤美子、大田黒養二出演。野村光一、山根銀二の批評。 清瀬保二、大木正夫、深井史郎が活躍の時代、再度パリで勉強したく渡仏。コーサードの追走曲のクラス、ビュッセルの作曲クラス、代講はシモンヌ・プレ。ジャン・フランセ。ポール・デュカ、メシアン。和声のコンクールではドゥジェーム・プリ(2位)。
  • 1936(昭和11):原智恵子が日本大使館で独奏会、池内作品も演奏。父と妹が来仏。共にドイツ、英国など旅行。学生生活を終え夏に帰国。

 ポール・フォーシュ先生に手紙を書き、小松清氏のお兄さんの小松耕輔氏からの紹介状を同封した。…私の勉強はすぐに軌道に乗った。フォーシュ先生は、和声のクラスの位置を占められてからまだ二年目くらいであって、年齢も五十歳前後で活気旺盛であった。コンセルヴァトワールには当時まだ一人も日本人の学生がいなかった。先生は、おまえが最初の日本人になるのだ、と言っておられ、私に対して異常な関心を示されることになるのである。週に一回か二回のレッスンを受けた。今までのことを全て忘れろ、自分はすべて全部知ってる、と言われ、レーベルの教科書とその補遺のデュボアの教科書を併用しつつ和声の第一歩から勉強させられた。(p58-60)

 その後対位法と追走曲を習いはじめ、同時に学校の作曲の教授アンリ・ビュッセル先生に紹介され作曲の勉強もすることにした。毎日曜日に先生の自宅へ通った。先生は、皆が私を日本人だと言う、だから君に好意を覚える、と優しく話してくれた。…先生のクラスに出入りするようになってもその人柄に惹かれ自宅でしばしばレッスンを受けた。フォーシュ先生と全く異なる型の音楽家で、長い年月の間コンセルヴァトワールの作曲家教授として実に数多くの作曲家を送り出しながら、私に、作曲というものは教えられるものではない、ということをよく言われたが、それは私が作曲の教師としてその後数多くの若い学生と接触しているときよく実感として回想される言葉になったのである。(p69-71)

■参考

  • アンリ・ビュッセル(Henri Büsser, 1872-1973、百一歳!)ドビュッシーのピアノ連弾曲『小組曲』を管弦楽編曲したことでも有名。