ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

島岡譲が語る池内友次郎

 国立音楽大学附属図書館が1994年に出した『池内友次郎書誌. 改訂目録』の後ろに、「わが師を語る」と題したインタビューが載っています。島岡譲、松村禎三、原嘉壽子の三人にそれぞれ取材したもので、その中から島岡の語る池内の部分を抜粋しました。

わが師を語る / 島岡譲
終戦を境にして、音楽学校も総入れ替えのような形になったわけです。それまではドイツ系のほうが主流で、フランス系の先生はほとんどおられなかったのですが、終戦小宮豊隆学長が就任され、恐らく御父様の高濱虚子先生の関係だと思うのですが、池内先生が作曲の教授になられました。同時に伊福部先生のような“変わり種”の先生も来られて、この両先生が作曲家に座られたわけです。…
 …(池内先生には)あの上野の旧校舎のボロなレッスン室で初めてお目にかかったのです。今から考えてみますと、その時の先生との出会いが私の一生の歩みを決定することになったわけです。まだ先生は40才になられるちょっと前で、私は丁度20才でした。「君若いね」といわれたのを覚えています。先生は、今でもダンディですけれど、終戦直後というのに非常にハイカラな服装でびっくりしたものです。
 私の記憶では、いちばん最初に和声の宿題をいただきました。…そのほかに平均律を真似して自己流で作ったフーガを数曲お見せしたところ、先生は感心なさって「どこでこういうフランス流の勉強をしましたか」と聞かれました。「どこでも習ったことはありません」と答えましたら、先生は「うそでしょ」と大きな声で言われたのを憶えています。(p105-106)

 それは池内先生がフランスでポール・フォーシェという、早く亡くなられたのですが、大変偉い先生に習われたときのノートです。池内先生が課題をやっていくとポール・フォーシェが直すのですが、それを直すのに何時間もかかり、その間生徒はずっと周りに座って見ていなければならなかった。その印象が池内先生には非常に強かったようです。「しまいにはもう原型がなくなってフォーシェの解答になってしまう」とよく笑いながら言われましたが、その手帳が全部残っているのです。五、六冊あったと思います。大型の分厚い立派なノートにきれいに浄書されているのです。…私にとって一番魅力があったのは、何といってもこのノートでした。結局、私が今のような仕事にのめり込んでしまったのも、池内先生に見せていただいたポール・フォーシェ共作の素晴らしい解答に感激して、自分でも何とかこういうものが作れるようになりたいと思ったのが一番の理由だったわけです。(p107)