ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

池内友次郎『父・高濱虚子』(その5)晩年

 作曲家・池内友次郎の自伝『父・高濱虚子:わが半生記』その5は、戦後の日仏交流、父の死、そして半生記出版まで。1953年には戦後二度目の渡仏をし、再びコンセルヴァトワールの試験審査員を務めました。その後友次郎は芸大図書館長、音楽学部長等を歴任し、1974年定年退職、名誉教授となりました。そして半生記出版の2年後に亡くなりました。

西暦(和暦):事項

  • 1953(昭和28):箕作秋吉の依頼で、国際音楽会議出席のためパリへ。安川、別宮、矢代、甲斐、西沢、田中と再会。ブリュッセルでも会議で講演、日本の音楽教育について語る。レヴィ先生訪問、田中希代子コンセルヴァトワールで和声と追走曲の審査担当、和声で矢代秋雄、追走曲で別宮貞雄と西沢晴子が受験。安川加壽子、豊田耕児、山根弥生子の演奏を聴く。安川夫妻と帰国。 秋にマジャン・マルティノン来日。レヴィ先生来日、サンデー毎日事件で演奏家と評論家が交戦状態。ダンディの作曲法講義のほか、ビュッセルの管弦楽法など7冊を逐次刊行。音楽コンクールの委員。NHKの尾高賞選考委員。テレビ出演、雑誌の対談。12月、同年代の平尾貴四男死去。
  • 1955(昭和30):深新会創設、三善晃「三重奏曲」演奏。音楽教育研究協会設立、会長となる。
  • 1957(昭和32):ブリヂストン美術館第9回作曲家の個展で池内友次郎作品が演奏される。
  • 1958(昭和33):大阪の相愛女子音楽大学作曲科主任を引受ける。大橋博を常勤教師に。
  • 1959(昭和34):父亡くなる。葬儀に小宮豊隆安部能成野上弥生子
  • 1960(昭和35):日仏音楽協議会設立、会長となる(昭和57年まで)。フランス政府よりレジョン・ド・ヌール・シュヴァリエ勲章を授与される。
  • 1966(昭和41):芸大図書館長(昭和45年まで)。10月還暦記念音楽会を東商ホールで行う。
  • 1968(昭和43):音楽教育研究会会長。
  • 1970(昭和45):芸大音楽学部長(昭和49年3月まで)。
  • 1974(昭和49):芸大定年退職、名誉教授となる。
  • 1977(昭和52):勲三等旭日中綬章を受章。
  • 1986(昭和61):文化功労者章を受ける。
  • 1989(平成元):『父・高濱虚子:わが半生記』永田書房より出版。

 箕作秋吉氏が見えて、六月ごろパリとブリュッセルで国際音楽会議があり、それに日本代表として出席してくれないか、と言ってくれたのであった。…前回と同様に、芸大の諒解を得て、フランス航空でパリまで直行した。…六月になってからコンセルヴァトワールはコンクール時期になり、私は和声と追走曲の審査に呼ばれた。和声では矢代秋雄君が受けていた。(p151、157)

 若い有能な作曲家の作品の紹介を主としながらの作品発表機関を創めることも意義があるのではないかと思い、この深新会という団体を実現せしめたのであった。深新会、という呼称は私の父が俳句の世界で唱えた、深は新なり、と言って、深く掘り下げてゆくとき新が生れるという標語から借りたものなのである。…出発のときの会員は、私のほか、年齢順にすれば、外崎幹二、貴島清彦、別宮貞雄、眞鍋理一郎、藤本秀夫、寺島尚彦、小泉治雄、内藤孝、湯山昭、和田則彦、三善晃、以上十二名であった。宍戸睦郎とか矢代秋雄の名が無いのは彼らがフランスからまだ戻っていなかったからである。(p167、170)

■参考