ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

島岡譲年譜(その1)終戦まで

【島岡譲先生は今回の演奏会に際してのニッポニカの取材にお元気にご対応下さいました。以下のブログは音楽史上の記述につき敬称を略させていただきますことご了解ください。】
 第33回演奏会で取り上げる『前奏曲とフーガ ト短調』の作曲者、島岡譲(しまおか・ゆずる、1926-)の年譜を、3回に分けてご紹介します。島岡は音楽教育者として多くの師弟を育てる一方、篤いキリスト教信仰の道を歩み、還暦の年に信仰文集『山を仰いで』を刊行しました。この本の巻末に、「還暦までの歩み」と題した年譜が付けられています。その中から、音楽に関連した事項をピックアップしてみました。「その1」は生まれてから終戦の年まで。
 島岡は1926(大正15)年1月、群馬県前橋市に生れました。小学校の頃、音楽好きの長兄の買って来た三枚組SPのシューベルト「未完成」を聴き、衝撃を受けます。長兄が音楽を志しオルガンと和声学を習い始めると、これに刺戟されて自己流の作曲を始めたりオルガンを弾いたりしました。
 1935(昭和10)年に上京し、長兄と共に平井康三郎に師事、ピアノと作曲の手ほどきを受けました。1942(昭和17)年、平井に勧められて東京音楽学校を受験し合格。入学後、橋本國彦、下総皖一に師事し、同級生には大中恩團伊玖磨がいました。翌1943(昭和18)年は学徒出陣の年で、同窓生の多くは陸軍戸山学校軍楽隊に入隊しました。東京音楽学校は閉鎖状態で島岡は軍事教練と勤労動員に明け暮れましたが、しばしばサボって音楽喫茶や映画館に通ったりもしました。

1944(昭和19)年:この年の秋、学校ぐるみ関西の暁部隊(陸軍の船舶部隊)に配属され、水中音波兵器の特訓を受ける。将来、兵隊の音感指導にあたるため。
 この間、営外居住のためストライキを指導、全員民宿を実現する。「我々は軍隊の要求する義務は忠実に果たすが、それ以外の時間は勉強に専念したい。やがて平和が訪れた暁に我々が御国に尽くす途は音楽なのだから」というのが要求の趣旨。
 神戸・大阪の楽器店に売れ残っていた楽譜類を有り金はたいて買い込み、訓練の合間にピアノで弾き散らす。その冬、淡路島岩屋の中隊に分遣される。兵営内でもピアノを弾いて絶えずトラブルを起こした挙句、中隊長に談判して、またも民宿を実現。

1945(昭和20)年:兵役が一年くりさげられたため召集を受け、5月25日(東京大空襲の日)、八王子の高射砲部隊に入隊。しかし高射砲も砲弾もなく、防空壕堀りに明け暮れる。やがて宇都宮近郊に移動、そこで8月15日の終戦を迎える。すし詰めの貨物列車で復員してみると前橋は見渡すかぎりの焼野が原。徒歩で渋川を経て赤城山腹の疎開先(義姉の実家)まで辿り着く。長い戦争の重圧から解放された喜びを実感した日。
 疎開先で冬を過ごす間に読書の楽しみを覚える。ロック『人間悟性論』を皮切りに兄の哲学書思想書を片端から読破。音楽熱も再興、ピアノも楽譜も焼失したため、かえって向学の思いがつのる。

出典:島岡譲『山を仰いで』(主婦の友出版サービスセンター制作、1987年)
NDL http://id.ndl.go.jp/bib/000001936324

■参考

(以下日本人作曲家の出典は、『日本の作曲家:近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008)