ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

「菅原明朗とその時代」

 菅原明朗評論集『マエストロの肖像』掲載の「菅原明朗とその時代」(1)(2)には、菅原明朗(1897-1988)の主として戦前の足跡が、12の見出しのもとに簡潔にまとめられています。概要を次の通りご紹介します。

菅原明朗とその時代(1)

  • 明石時代の明朗と洋楽事始
     1897年兵庫県明石の商家に生まれた菅原明朗は、讃美歌や軍楽隊の音楽に親しむ幼少期を送る。
  • 京都二中時代の明朗
     1911年、親戚のいる京都の中学で吹奏楽隊にはいり、フランス音楽の流れをくむ指導を受ける。楽器の構造に興味を持ち、レコード鑑賞も始める。[野村光一と知り合う]
  • 『音楽と文学』の時代
     上京し1914年川端画学校入学。このころ作曲家大沼哲の大沼塾へ野村光一と入る。野村と共に大田黒元雄のサロンにも出入りし、堀内敬三らと交遊。1915年初めて作曲するが、堀内から基礎理論を学ぶよう助言を受ける。1916年大田黒が創刊した月刊誌『音楽と文学』の同人となる。
  • 明朗の奈良時代
     1919年奈良に移住[1926年まで]、仏教美術に親しむ。音楽の基礎を徹底的に勉強する。マンドリンオーケストラの指揮を始める。
  • 明朗とOST
     武井守成の率いるマンドリン合奏団OST(オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ)に明朗は1918年から参加し、演奏、指揮、作曲、編曲を担当する。またプレクトラム音楽と楽器に関する研究も深める。しかし1932年頃からは遠ざかる。
  • 武井守成とOST
     イタリアへ留学した武井守成は1915年シンフォニア・マンドリーニ・オルケトラ(後のOST)を創設し、プレクトラム音楽の作曲、演奏等で活躍。楽譜や文献を集めた武井文庫を開設。1949年守成没後OSTの活動は終息し、武井文庫は1991年国立音楽大学附属図書館へ寄贈された。

菅原明朗とその時代(2)

  • 明朗と伝統の響き
     1932年から1934年にかけて明朗は、琴や尺八をマンドリン合奏やオーケストラとともに用いた数々の作品を発表。日本の伝統音楽の楽器や演奏スタイルを、新しい演奏法によって復活させようと試みる。
  • 明朗の活動期
     明朗の音楽作品と著述の数から、作曲は1930年代と1980年代が二つのピーク(詳細はこちら)。1930年以降自作の演奏機会が増えた裏には、音楽著作権をめぐるプラーゲ旋風がある。
  • 帝国音楽学校の内紛
     1927年設立の帝国音楽学校に日本で初めて置かれた作曲科の主任教授として、明朗は1930年招かれる。教え子に深井史郎、服部正ら。しかし1933年末に解職される。
  • 明朗と楽器図鑑
     1938年刊行の『楽器図説』は、OST等の体験と奈良時代の徹底的な勉強のひとつの成果。推薦の言葉は、音楽之友社社長になった堀内敬三と、作曲家諸井三郎。
  • 荷風との出会いと『葛飾情話』
     1937年ころ永井荷風と出会ってから、翌年永井台本、菅原作曲のオペラ『葛飾情話』を上演するまで。
  • 流浪の民
     各地を転々とし、戦災に合った荷風と岡山へ逃れるが、その地でも戦災にみまわれる。1945年の終戦後、荷風と疎遠になる。明朗は音楽教育の場で職を得る中、中世文化、グレゴリオ聖歌ラテン語を独習。『交響楽ホ調』『預言書』を作曲。

典拠資料:「菅原明朗とその時代(1)(2)」 / 松下鈞(『マエストロの肖像:菅原明朗評論集』) http://d.hatena.ne.jp/nipponica-vla3/20151221/1450675253