ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

菅原明朗とイタリア(3)イタリア体験と創作

 作曲家菅原明朗(1897-1988)の年譜などから、イタリア体験とイタリアに因む創作活動をひろってみました。菅原がイタリアへの思いを募らせていった足跡の一端がおわかりいただければと思います。

西暦(年齢)イタリアに関連する体験と創作
-1912(15)京都二中でイタリアのオペラ作者を知る。
-1918(21)OSTのメンバーとなり、マンドチェロを担当。
-1919(22)奈良に移り住んだ時期(〜1926)に、コレッリやヴィヴァルディからバロッコの音楽に親しんだのも此の頃で、それとクラシーコの中間にあるチマローザを知るようになり、ハイドンモーツァルトの音楽に対する考えを一進した。
-1921(24)イタリアに注文したチマローザの楽譜届く。
-1923(26)京都の古書店チマローザ『秘密の結婚』スコアみつける。
-1925(28)ロッシーニピアノ曲聴く。欧州の友人からチマローザレスピーギの楽譜贈られる。
-1926(29)マリピエロの管弦楽曲『チマロジアーナ』を知る。
-1932(35)同志社マンドリンクラブ演奏会でサティ、リュリ、ラモー、クープランの曲を編曲、指揮。OST会員から退く。
-1939(42)チマローザの音楽を主題とする管弦楽曲を試みるが成らず。
-1940(43)ピッツェッティ『交響曲イ調』を聴く。
-1947(50)欧州ラテン系文化に対する尊敬日増しに高まる。中世紀文化研究を始める。
-1948(51)ピッツェッティ、マリピエロの近作を友人宅で知る。
-1951(54)グレゴリオ聖歌ラテン語の勉強。以前手がけたチマローザの主題による作品の手稿譜を再入手し、新たに創作にかかる。
-1952(55)『チマローザの断章によるコンチェルト・グロッソ』放送初演。
-1953(56)『交響楽ホ調』作曲放送初演。オラトリオにとりかかる。
-1954(57)オラトリオ『預言書』第1部完成。
-1955(58)オラトリオ『預言書』第2部完成。
-1957(60)オラトリオ『預言書』第3部完成。
-1963(66)プロテスタントからカトリックへ改宗。洗礼名はイタリア読みでフランチェスコ・ジョバンニ。
-1967(70)初めての欧州旅行でイタリアを訪れる。ピッツェッティを訪問。
-1968(71)『交響的幻影「イタリア」』作曲初演
-1969(72)ピッツェッティ一周年忌、記念演奏会の為に関西マンドリン合奏団と共にイタリア訪問
-1972(75)渡欧
-1974(77)イタリアを旅行する。アスコリピチェーロ、マチェラータ、フェルモ、テラータというような観光地ではない、地方の小さな町の教会を訪れた。建築物に対する興味を持っての旅であった。
-1980(83)イタリア中世の小聖堂の感銘を『小聖堂』として作曲初演。
-1981(84)来日したヨハネ・パウロ二世に前年作曲のレクイエムを献呈。5月より一ヶ月間イタリア旅行。ローマのカラビニエリバンド(陸軍憲兵隊軍楽隊)を訪問した。

出典:菅原明朗評論集『マエストロの肖像』 ほか

※写真は『チマローザの断章によるコンチェルト・グロッソ』第2楽章冒頭