クリティーク80編の「現代日本の作曲家」シリーズ5に掲載の自伝からの抜粋編集です。
第4章 戦後の生活(4)現音と外遊
『交響曲第2番』を発表した1960年に、日本現代音楽協会の委員長に選出され、1963年まで務めました。ソ連作曲家同盟との交流が始まり、初めての外遊に清瀬保二氏と二人で出かけました。伏木[富山]〜ナホトカ(船)〜ハバロフスク(列車)〜モスクワ(空)と旅行。キエフ、レニングラード、タリン(エストニア)の各地で作曲家たちと話し合いをし、東独、ベルリン、ウィーンにもまわり、パリ経由で帰国しました。タリンで出会った作曲家ノルメット氏とは長く付き合い、自作をエストニアで紹介して下さったそうです。当時エストニアを訪れる日本人は珍しく、テレビにも出演したとのこと。
旅は続いた。ウィーンに入った。内田るり子さんが空港にきてくだされ、手ごろなホテルを予約していただいてあり大助かりだった。(中略)当時ウィーンには佐々木成子さん、内田さん、それに大橋国一氏くらいしか日本の音楽家はいなかった。いまは数百名の音楽関係者がいると聞く。大いに違ったものだ。佐々木さんが、歌曲作曲家として有名なJ.マルクス氏宅に連れていっていただいた。君はどんな曲を作っている?
氏はいわれた。「歌曲は?」「なぜもっと作らない。歌がいちばん演奏されるのに」と、まことにその通り。私はなぜ作らなかったかと、今は悔やんでいる。(p55)
1963年『オーケストラのためのセレナーデ』を上田仁指揮・東京交響楽団、TBSラジオで初演。
日本現代音楽協会 年表 http://www.jscm.net/?page_id=42
内田るり子 〔歴史が眠る多磨霊園〕 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uchida_ru.html