ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『私の半生記』:父の死

 震一が札幌光星商業学校4年生になった頃、戦時色が濃くなりました。1941年(昭和16)夏には勤労奉仕で近郊の地へ泊りがけで出かけ、昆布干しや摘果(リンゴの実がびっしり実っている中から、優れたものを残して後を除く作業)を行ないました。作業の後に父の尺八の門人であった町長さんの家で、尺八と筝の合奏を楽しんだりしました。農家の人たちと生徒との親睦会の余興でも筝を弾き、宮城道雄の曲などを歌い弾きもしました。その時の縁で知り合った方達とはその後も交流があります。
 1942年(昭和17)に父が癌で亡くなりました。

悲しみの年
…父は一介の土木技師という地方官吏を最後に世を去って終った。父にとって、この官吏職は一家を支えるために止むを得ず務めたように私には思えるのである。食を断って床に就くまでは一日も尺八を吹かぬ日は無かった。
(中略)
 不思議な事なのだが、曲を作っていると、よく父の事が想い出される。小学校の頃、私は父の側で寝ることが多かったが、真夜中、目を覚ますと、父はうつぶせになり、左の掌を五線紙に上向きにのせ、右手に鉛筆を持って、真剣な目なざしで楽符を書いていた事があった。この情景がふっと浮んで来るのである。なかなか曲想が思う様に進展しない折に、多くこの情景が思い出され、気が楽になって、あとが思いがけず進んでいくのである。私の創作の面に、父が手をかして呉れているのであろう。一曲完成すると、私は誰よりも父が喜んでいる様に思え、今も曲ができるたびに、父を憶うこと頻りである。

引用:唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983)p105-108より