ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『続・私の半生記』:東京音楽学校

 1948年(昭和23)3月の二次試験には、震一を含め4名が合格。東京音楽学校は隣の美術学校と合併して翌年東京芸術大学となることから、この年の入学者は1学期終了まで仮入学の扱いでした。一度札幌へ帰ろうと思いましたが、交通費もかかり混雑も尋常でないことからあきらめ、そのまま姉の所で過ごしました。授業は実技が筝曲、声楽、ピアノ、体育で、学科は楽典と日本音楽史、一般教養の英語が必修でした。人の斡旋で就職した先を棒に振っての入学でもあり、猛烈に精進して勉学に励み、1学期終了時に無事本入学となりました。夏休みにはいるとすぐ帰省しました。(画像は奏楽堂 p28)

帰省と挨拶回り
…札幌のわが家を基点に連日のように出歩いた。先ず勤務先の鉄道管理部と混声合唱団へ出掛けた。勤務先の伊藤課長、東郷係長はじめ同僚の暖い歓迎を受け、よろこんで頂いた。課長は私が音楽仮入の時点で郵送してあった退職願の紙片を机の引き出しから取り出し、あらためて新日付で書き直して提出するように述べて、島崎さん(女性事務員)を促し、不在中(二月から七月)の私の給与を支払って下さったのである。

 夏が終って学校へ戻り、更に勉学に励みました。吉川英史先生の日本音楽史の綿密な授業内容は、はじめて知る邦楽の他の分野の知識であり、理論と実際の結びつきが伝統音楽にとっても大切な研究課題であると感じられました。

東京芸術大学への道
…私は先ず宮城道雄先生に自分のこれからの進路についてご意見を伺った。先生は極めて端的に『唯是さん、作曲の勉強をして下さい。そのためには理論の勉強が大切です。筝や三弦を演奏する人は沢山いますが、作曲は誰にでも出来るものではありませんから。』と。
 片山穎太郎先生は『あなたが芸大の楽理科に進むのは賛成できます。期末課題の論文のテーマもユニークだったし、良く書けていた。邦楽にもあのような実際面の分析がこれからは大いに研究される必要がある。理論が先行することは一時期重要なことだから。』というようなご意見であった。
 宮内先生は早速に信時潔先生にご相談下さった。(中略)信時先生は私の習作に目を通されて、『短調の作品に佳作が多い。ピアノもベートーヴェンの作品四十九のソナタを弾いたそうだし、筝と三味線にも精通しているのだから、芸大へは理論専攻がいいよ。』とはっきり解答を出された。


引用:唯是震一『神仙調舞曲:続 私の半生記』(砂子屋書房、1988)p39、46-47より