ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

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バラキレフが通ったカザン大学数学科

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カザン大学(1928年以前)

古い貴族の末裔である父親を持つバラキレフは、10歳の時母親に連れられモスクワでデュビュークのピアノレッスンを受けました。その後母親を亡くし、中学校はアレクサンドロフ寄宿学校にはいります。そしてピアノはアイスリッヒに師事し、ウリビシェフの所にも顔を出していました。16歳になると寄宿学校を離れ、カザン大学数学科に入学し2年間学んでいます。そこで「カザン」という土地と「数学科」という科目に注目してみました。

バラキレフの生まれたニジニ・ノヴゴロドはモスクワの東400キロに位置する街で、カザンはさらにその東400キロ、モスクワからは800キロ東になります。韃靼(だったん)とも言われるタタール文化の中心地として栄えたカザンは、ヴォルガ河に面し水上・陸上交通の要として商工業が発展し、学術研究の中心でもありました。タタールの文化としてはモンゴル及びトルコ系の遊牧騎馬民族イスラム教、タタール貴族の子孫ボリス・ゴドゥノフなどが浮かびます。ボロディンのオペラ『イーゴリ公』に出てくる『韃靼人の踊り』は有名です。

そうした民族文化が渦巻くカザンで過ごしたバラキレフは、ピアニストとして地元で有名になり、ピアノを教えて収入を得ていたそうです。10代の2年間にはタタールの音楽も様々に耳に入ってきたことでしょう。バラキレフはサンクト・ペテルブルクに出た後、コーカサス地方などを旅行し民謡を収集していますが、民族音楽との接点はこのカザン時代の体験にもあると考えられます。

1804年設立のカザン大学はバルト3国を除くとモスクワに次いでロシアで2番目に古い大学で、帝政時代には歴史・言語学、物理学、医学、法学の4学部からなっていたそうです。当時カザンより東に大学は無く、中央から東アジアにかけての学術研究の中心地でもありました。トルストイレーニンもここで学んでいます。

バラキレフの入学した数学科は、おそらく物理学科の中にあったのでしょう。古代ギリシャピタゴラス派の人々は「数学」を「数」と「量」を扱う2つの分野に分け、静止しているか動いているかでさらに2つに分け、静止している数を扱うのが「数学」、運動している数が「音楽」、静止している量が「幾何学」、運動している量が「天文学」としたそうです。いずれにせよ数学と音楽は兄弟で、バラキレフが数学科に入った理由でしょう。ロシアの大学制度はよくわかりませんが、カザン大学物理学部数学学科音楽専攻、というようなことではと想像します。

大学の休暇に故郷へ戻ったバラキレフは、ウリビシェフがベートーヴェンに関する書籍を執筆するのを手伝い、数多くのベートーヴェンソナタを演奏したそうです。そして18歳になり大学の課程を修了したバラキレフを、ウリビシェフはサンクト・ペテルブルクへ連れて行ったのでした。

■追記
カザン大学で学んだトルストイ(1828-1910)はバラキレフより9歳年上でしたが、その学生ぶりについての文章があったので引用しておきます。当時の大学生の様子が垣間見えます。なおトルストイは結局中退しましたが、バラキレフは2年間の課程を修了しています。
「1844年、16歳の年に、彼は兄たちの行っているカザン大学に入った。東洋語科のアラビヤ・トルコ語系列だった。カザン大学は1804年に創設された、ロシアでも古い名門校の一つであり、のちにレーニンもここで学んでいる。しかし、トルストイはよい学生ではなかった。大学生ともなれば社交界に出入りすることができたので、夜会、アマチュア芝居、劇場めぐりなど、遊びにはことかかなかった。家柄もよく、かつての県知事の孫で地方名士たちのの縁故も深いうえ、近い将来には申し分ない花婿候補になることの約束されているトルストイは、どこへ行ってもちやほやされ、勉強どころではなかった。」(出典:トルストイ原卓也訳『戦争と平和 I』中央公論社、1968, p536-537 解説/原卓也

■参考文献
・ニューグローブ世界音楽大事典. 第13巻. 講談社, 1994
・ロシア・ソ連を知る事典.平凡社, 1989
桜井進、坂口博樹著 音楽と数学の交差. 大月書店、2011、p37

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■更新履歴

  • 2021.12.26:第5段落に文言追加
  • 2022.1.9:「追記」を追加