ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

バラキレフの音楽の師たち

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20世紀末のソ連の地図

ミリイ・バラキレフは1837年の生まれ、ワーグナーの妻コジマや徳川慶喜と同じ年です。生まれたのはモスクワの400kmほど東にあるニジニ・ノヴゴロドで、この街はロシア第5の商工業都市だそうです。立派な劇場の写真があります(https://w.wiki/4SKN)。この地で彼は母親から音楽の手ほどきを受け、4歳でピアノを演奏しました。

10歳の夏休み、バラキレフは母親と共にモスクワへ行き、フランス系ロシア人ピアニストのアレクサンドル・デュビューク(1812-1898)のレッスンを10回受けました。デュビュークはアイルランド出身の作曲家でピアニスト、ジョン・フィールド(1782-1837)の弟子でした。フィールドはロンドンで師事したクレメンティと共にヨーロッパ大陸の演奏旅行に出かけ、ロシアの首都サンクト・ペテルブルクで師と別れました。フィールドの芸術的感性は多くの音楽家に影響を与えたそうです。後にデュビュークは、バラキレフに勧められて書いた「フィールドの思い出」を出版しています。バラキレフはデュビュークについて、自分がピアノを弾けるのは彼のレッスンのおかげである、と述べているそうです。
Alexandre Dubuque (撮影者不詳, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
John Field (Anton Wachsmann, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

バラキレフはその後、ドイツ人ピアニストで指揮者のカール・アイスリッヒ(1817-1881)に師事しました。アイスリッヒの父親はバイロイト生まれで作曲家、指揮者として活躍し、サンクト・ペテルブルクで没した、カール・トラウゴット・アイスリッヒでした。息子のアイスリッヒはバラキレフに対し、幅広い音楽体験を積ませました。14歳の時にバラキレフはアイスリッヒを手伝ってアマチュア演奏家によるモーツァルトのレクイエムの演奏会を準備しました。

当時ニジニ・ノヴゴロドには、音楽評論家でアマチュア演奏家の、アレクサンドル・ウリビシェフ(1794-1858)が住んでいました。ドレスデン駐在ロシア大使の息子だったウリビシェフはドレスデンで生まれ育ち、サンクト・ペテルブルクで外務省に務め、36歳で引退してからはニジニ・ノヴゴロド近郊の自宅で音楽研究に打ち込んでいました。1843年には3巻からなるモーツァルトの伝記をフランス語で書き、後にチャイコフスキーがこれをロシア語に翻訳しています。自宅には膨大な蔵書と楽譜のコレクションがあり、地元の有名な音楽家たちが集っていたそうです。こちらも立派な自宅の写真があります(https://w.wiki/4Rni)。ちなみにチャイコフスキー1840年生まれでバラキレフの3歳年下、日本では渋沢栄一と同年齢です。

ウリビシェフは頻繁に劇場に出かけ、その合間には室内楽を自宅で楽しんでいました。自身は第1ヴァイオリンを弾き、ピアノはアイスリッヒだったとのこと。そのアイスリッヒの代役を弟子のバラキレフがしばしば務め、ウリビシェフにその才能を高く買われることになりました。十代の若者はあふれるような音楽の刺激を受けたことと思われます。室内楽で多くの作品に直接触れ、小劇場でアイスリッヒの指揮するベートーヴェン交響曲を聴き、ウリビシェフの膨大な音楽文献と楽譜を見ることができ、15歳でベートーヴェン交響曲リハーサルを担当したそうです。

1855年、18歳になったバラキレフをウリビシェフはサンクト・ペテルブルクに連れて行き、グリンカに紹介しました。ウリビシェフのおかげでバラキレフはピアニストとして、また作曲家として音楽界へデビューできたのです。1858年にウリビシェフが没すると、遺言で1000ルーブルと2挺のヴァイオリン、そして楽譜コレクションがバラキレフに贈られたそうです。

(写真は20世紀末のソ連の地図。モスクワの東にあるゴーリキーは、ニジニ・ノヴゴロドの1932年から1990年までの名称。さらに東にあるカザンの大学数学科にバラキレフは16歳で入り、地元の社交界でピアニストとして有名になっている。モスクワの北西にあるレニングラードは、サンクト・ペテルブルクのソ連時代の名称。出典:ワールドアトラス 三訂版 帝国書院 初版1985年、三訂版1990年)

参考文献

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