マニラで演奏会を開催してから丁度1年。フィリピンと日本にとってこの2月9日が特別の日であることは、帰国してからオーケストラのメーリングリストに送られた下記メッセージで知りました。
BARBARA'Sでの決起夕食会から一週間が経ちました。
音楽祭の委嘱によってフィリピンと日本の新しい優れた音楽作品が誕生し、またフィリピンの理想的な聴衆によって私たちの演奏が受け入れられたことにより、日本の文化庁から委託された東アジアにおける国際芸術文化交流事業に意義のある華を添えることができましたことは、みなさま方のご協力の賜物と感謝致しております。このメーリングリストが活かされているうちに、みなさまにぜひともお伝えしたいことがあります。
9日のオーケストラ演奏会の両国国歌演奏の後に20秒間の黙祷を捧げたことについてです。
フィリピン国歌歌詞
最愛の国 東洋の真珠
心に燃やし続ける熱情選ばれし国 勇者達の眠る地
いかなる征服者にも屈せず海 山 蒼天
詩の如き壮麗さを放ち
愛しき自由への歌を奏でん汝の御旗は勝利への輝き
決して曇ることなき星と太陽栄光と愛情の地
汝の腕の中に天国はあり
汝を脅かす者あらば
この命 喜んで汝に捧げん
1945年2月3日〜3月3日の期間に、マニラ市を日本軍と米軍&フィリピンゲリラが奪い合う激戦が交わされました。マニラ市民10万人が亡くなっています。当然このことは、知っておりました。
ところが、9日という日は、日本軍がマニラにおいて虐殺や強姦など最も残虐な行為を働いた日として記憶されていて、このフレンドシップコンサートが発表されると同時に、「よりによって何でこの日に日本とのフレンドシップなのだ。」という意見が寄せられたのだそうです。
招聘者のフィリピン文化センターのDr.Sunico氏は直ぐに新聞に音楽祭の意義を意見表明したということです。
これが冒頭20秒間の黙祷の意味です。
不覚にも、このことを認識したのは、演奏会終了後の10日に、文化庁へ提出する事業完了届け書類にDr.Sunico氏のサインをいただいた後に、氏の口から経緯を伺った結果によるものです。
Dr.のご両親の時代の出来事です。そのような厳しい指摘があった上で、フィリピンの聴衆の方々に盛大な拍手とスタンディングオーヴェイションを頂いたことの意味を考えてみませんか。
私にとっては、フィリピン国民の日本がアジアを傷つけた記憶は忘れないけれども許すという姿勢は、親しく交流を果たしたベトナムでも痛感したことでありました。
アンコールに演奏したフィリピンの歌謡「Dahil sa Iyo(あなたのおかげで)」は、どのように聴こえたのでしょうか。CCPはフィリピンの最も伝統ある劇場であり、このツアーは日本の文化庁と外務省の認定事業でした。音楽祭は国家的事業でした。しかし、音楽祭の制作の実態は国家でも組織でもなく、交流の意義についての自覚あるフィリピンと日本の民と民の交流と努力でした。不断の草の根の人物交流と外交官の交流努力こそが、国際交流の原点と自覚を新たにした次第です。
『古楽同源・新楽共創 日本・フィリピン友好合作現代音楽祭』(演奏会プログラム) http://d.hatena.ne.jp/nipponica-vla3/20130211/