ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

四家文子と橋本國彦

 戦前から戦後にかけて活躍した声楽家四家文子(よつや・ふみこ、1906-1981)は、東京音楽学校で橋本國彦の1級下でした。彼女の自伝『歌ひとすじの半世紀』には橋本についての章もありましたので、抜粋を紹介します。

橋本国彦
 彼はわたしの一年上のクラスで、昭和二年にヴァイオリン科を卒業した。顔色の蒼白いハンサムボーイで、抜群に頭脳明晰だったせいか毒舌で気取り屋さんだった。
 ドイツ音楽が幅をきかせていた上野で、ひそかにフランスの新しい作曲技法を勉強していたらしく在学中から新鮮なムードの歌曲を次々と創った。出来上がると徳さん※かわたしが歌わされられた。非常に神経のデリケートな彼は、その歌曲に大変詳しく細かい強弱や表現の指示を書き込んでいた。
(中略)
 当時、上野を出た声楽家はドイツ・リードや、オペラ・アリアを歌って好楽家に喜ばれていたが、日本歌曲も極めて稀にはプログラムに加えられていた。
 しかしわたしは女学生の時、日本語を歌いならしていたし、何となく日本歌曲が好きだったので、横浜の新人紹介演奏会では卒業演奏でも歌った、ブルッフの「オラトリオ」と、彼の作曲で出来たばかりの「お菓子と娘」を歌った。日本歌曲を大切なステージで歌うのには勇気のいる情勢だったが、軽快でハイカラなこの歌はその夜大いに受けたので、彼は喜んでくれて、最初に共益商社から出版されたピースには「四家文子さんに捧ぐ」と印刷して下さった。それでこの曲は今でもわたしの十八番の一つである。
 彼が深尾須磨子女史の詩を、荻野綾子女史のために作曲した「黴(かび)」と「斑猫(はんみょう)」の二作品は、五十年近くたった現在でも新鮮で素晴らしいと思う。
 こんな複雑で演唱困難な名歌曲を二十五歳位の時に書き上げたということは、作曲家として大変な鬼才であったといっていいだろう。
(後略)
※編註:徳山〓(王へん+連)=四家と同級のバリトン歌手


出典:四家文子『歌ひとすじの半世紀』(芸術現代社、1978)p68-70