ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

古澤淑子と荻野綾子(その1)

 古澤淑子は大連で遠藤郁子(遠藤周作の母)に唱歌を習ったのち、東京での師として荻野綾子を紹介されました。1930年(昭和5)に自由学園に入学し、フランス語を学んでいた14歳のこと。最初のレッスンでは「お嬢様芸だったらおやめなさい」といわれたそうです。

 「最初の先生、遠藤郁子先生に輪をかけたくらい明るく、ざっくばらんな綾子先生。屈託がなく、私はその後すぐ緊張を解いていきました。レッスンは易しいイタリアン・ソングから。徐々にドイツリードのシューベルトの曲に入っていきました。声楽も外国語と同じように耳が重要です。アクセントや言葉の細かなニュアンスは完璧に物真似するしかないのです。初歩の段階では声を出すことが目的なので、難しい理屈より先生の示すお手本をすっかり真似するしかないと思いました。それを続けて技術が身についた上で、曲の解釈にすすみ、さらに自分の歌にしていくのです。
 綾子先生は決してあせらず、『今、わからなくても、そのうちにきっとわかってくるわ』と、さっぱりしたもの。私のほうが、あら、これでいいのかしらと思いました。先生のステージを見たのは、一度、大連にご一緒して歌ったとき。もう一度は軽井沢の音楽会で。なんと、そのときのピアノ伴奏が、倉知緑郎。つまりのちに我が夫になる人だったのよ。」
 倉知緑郎の名は、当時、日本歌曲の作曲家として著名であった。
 この演奏会で、淑子は師・荻野綾子声楽家としての神髄に触れたと思った。
 フォーレの『夢のあとに』『月の光』、ドビュッシーポール・ヴェルレーヌの詩より数曲。
 なにより、淑子が共感を覚えたのは、綾子の、清冽な姿勢。ディヴァ(プリマ)のように甘くなく、決して媚びず、さらに切々と心に訴えかけてくる力。詩の抑揚が明快でありながら、濃密なニュアンスがあふれ出る美しさ……。

出典:星谷とよみ『夢のあとで:フランス歌曲の珠玉 古澤淑子伝』(文園社、1993)p58-61