ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

四家文子と荻野綾子

 四家文子が8歳年長の荻野綾子に師事したのは1929年、『笛吹き女』初演の年でした。自伝から抜粋します。

荻野綾子
 パリでクロワザに師事されて帰国、その頃わが国では未知のフランス歌曲の紹介にただ一人活躍されていた。わたしはフランスのアリアだけでは物足りず、歌曲の方も習得したくて、昭和四年に門をたたいた。フランス歌曲のメロディーの流れと、ピアノ伴奏との調和の何とかぐわしく優雅なことか。ドイツ歌曲とは、全然異質の美しさがそこに展開される嬉しさに、わたしは躍り上がるような気持だった。どうもその頃のわたしは何でもやりたいという、好奇心いっぱいの娘だったようだ。
 荻野先生は理知的で、どちらかというと冷たいタイプに感じられた。フォーレドビュッシーショーソン、デュパルク、ラヴェルなどの名歌曲を次々と教えていただき、わたしのレパートリーはふえていった。(中略)
 荻野先生は日本歌曲にも積極的な気持ちを持たれていて、深尾女史の詩に良い作曲をさせるために、若い作曲家たちを励まして経済的援助をするために、お二人で質屋通いまでなさったことを後日知り頭が下がる思いだった。
 昭和二年卒業の鬼才、橋本国彦もその一人で、彼の代表的歌曲「斑猫」(はんみょう)「黴」(かび)は荻野女史に捧げられて初演された。彼とはグループだったわたしも、当然その後で勉強してみたけれど、朗読調のところがむずかしく、理解しにくくて、照臭くてまいってしまった。四十年以上たった今なら、わたし自身にも聴衆にも納得がゆくのだが、それを先取りしていらしたのだからこのひとは先覚者であり立派だったといえよう。(後略)


出典:四家文子『歌ひとすじの半世紀』(芸術現代社、1978)p48-50