ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『私の半生記』:復員そして復学

 身辺整理をして復員を待つ日々が続く中、近所の家から山田流の筝の音が聴こえてきました。思い切って訪ねてみると、その家の娘さんが弾いていたのでした。

復員の日まで
…私は簡単に自己紹介をして、私にも弾かせてほしいと少々強引に頼み、部屋に上げてもらった。少女の爪の輪は私には小さすぎたが、母親のがあるといって、差し出してくれた。以前、山田流の爪でも弾いたことがあったし、少々向指の輪は大きすぎたが、少女の拇指の爪を代用すると、間に合った。私は少女に感謝しつつ半年以上も触れなかった楽器を少なからず興奮しながら弾きまくった。三、四十分もたて続けに弾いて、満足感を味わった。
 礼を言い、立去ろうとすると、少女はまた来て弾いても良いと微笑んだ。
 それから私は三日にあげず、時をみては弾かせてもらった。いつの間にか、私が筝を弾くという事が隊内で評判になってしまっていた。九月一日付で、復員令が下り、通信中隊の別れの宴が催された。その夜、私は一同に求められ、少女の楽器を拝借して、「六段の調」に始まり、新旧の数曲を披露したのであった。

 復員して札幌へ帰り、小樽高商に復学しました。秋の学園祭では筝の独奏やマンドリンとの合奏を披露しました。図書室勤務の斉藤翠さん奏するハーモニカとの二重奏も評判になり、翌年も大好評でした。

学園祭
…その結果、札幌のNHKからお声をかけて頂き、「六段の調」と「春の恵」の二曲を放送させてもらう事になった。ハーモニカと筝の協演ということで、当時はすっかり有名になり、それが嚆矢(こうし)となって、翠さんと私は小はお座敷、大はステージと呼び声を頂戴することとなり、土、日をかけて全道のあちこちに演奏会を催すことになったのである。

 1947年(昭和22)3月20日、小樽高商を卒業しました。大学へ進学してはという話もありましたが、母や姉にすまないという気持ちが先にたち、大成建設へ就職することになりました。  【完】


引用:唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983)p173-174、186より