ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『私の半生記』:横谷英次君のピアノ

 1944年(昭和19)に震一は幹部候補生に合格し、札幌市郊外の恵庭教育隊に派遣されました。翌年1月釧路から得撫(ウルップ)島へ向かうことになり、釧路の叔母の所でしばらく待機しました。叔母の友人勝見さん宅で同僚の横谷英次君がピアノを練習するのを聴く機会がありました。

勝見さんという人
…横谷君は軍刀を腰から外すと、アップライトに向った。私は彼の邪魔にならないように、薄暗い部屋の片隅に坐り、彼のピアノ演奏に耳を傾けた。彼は暫く、指のトレーニングを続けていた。細面で、鼻筋が通り、ノーブルな唇を持つエキゾティックな彼の顔だちとピアノは一枚の絵画のように見えた。普段の軍人としての彼の弱々しい姿とは異って、精彩に富み、生々として見えた。華奢で、細長い指から信じられない強力なタッチで、鍵盤の上を左右に走り回る演奏を固唾を飲みながら見つめていた。ステージの演奏を客席で、あるいはレコードで聴くピアノは知っていたし、素人の弾く程度のピアノは数多く見た事のあった私であったが、筝や尺八の邦楽畑で育った私には至近距離で、いわゆるピアニストが猛練習する光景を目の辺りに見聴きするのは初体験だったと思う。コードや指のトレーニングが一段落すると、彼は少し間を措いて、ベートーヴェンの「アパショナータ」を弾き始めた。その間、私は言葉も掛けず、せきもせず、ただ彼のピアノに向う姿と音に魅せられていた。彼も私の事など眼中になく、まさに無我の境地で音楽に集中し、長期間、触れることのなかったキーを思う存分に叩いていたに異いない。

 得撫島に7月まで勤務した後、根室へ着いた晩に空襲に遭いました。30名近くが命を失い、無言の中に涙しながら慰霊の供養をいとなみました。その後稚内へ向かい、ノサップ岬で北海道北辺の警備に当りました。8月15日終戦

引用:唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983)p150-151より