荻野綾子がチェレプニンの演奏を聴いたかどうかはわかりませんが、プロコフィエフの演奏を聴いた記録はあります。またプロコフィエフも荻野綾子の歌を聴いています。
チェレプニンより8歳年長のプロコフィエフ(1891-1953)はペテルブルグ音楽院で学び、ロシア革命後に日本経由でアメリカに亡命しました。その後パリで活動した後1933年に祖国に戻ります。荻野綾子は1932年1月にパリのシャンゼリゼ劇場で日本の『草刈唄』『籾摺唄』、そして橋本國彦の『舞』を歌っていますが、プロコフィエフはその練習会場に来ていたのでした。
歌は籾摺歌からで、調子がとてもよい。シャンゼリゼーのホールの隅々にまで響く、この調子なら大丈夫だとある自信を持った。指揮者ルネ・バートンが大きな体を静かに連れて来た。二つ目の歌の時には、プロコフィエフがむっつりした顔をして座っていた。
(中略)
それは機械的な構成と響とを感ぜせしむる、男性的なピアノだと幾度か思った。プロコフィエフのピアノの曲は、線の太い終りの頁に展開されてゆく。ラ・ベモールとオーケストラの間違を、彼自身弾きながらどなる。自分の音楽を自分でやる男としみじみ思った。彼の強い指先からは、困難なテクニックと、スラヴの音と、張り切った力とが流れて来る。男の音楽だと思いながら、私はも一度プロコフィエフを眺めた。(後略)
出典:荻野綾子「私は子供」(『音楽世界』4巻4号 1932年)
プロコフィエフがパリで同郷のチェレプニンと交流がなかったとは考えにくいです。
荻野綾子略年譜 http://d.hatena.ne.jp/nipponica-vla3/20130924/1380000264