菅原明朗(1897-1988)の『交響的幻影「イタリア」』(1968)の第1楽章にはラヴェンナの聖堂のモザイク、第2楽章にはスビアーコの修道院、第3楽章には彫刻家ピサーノ父子が題材として使われています。これらの題材は作曲前年の1967年、70歳の時初めてヨーロッパを旅行したときの経験が投影されています。この旅行については、雑誌『芸術新潮』1968年1月〜8月号に菅原が連載記事を執筆していますが、約半年間の旅でイタリアの50近い町を訪れたそうです。ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ラヴェンナ、ピサ、ヴェネチアなどの都市を始め、その周辺の小さな町にも足を伸ばし、ローマ時代からの様々な遺跡や美術品を目にしています。記事のタイトルは次の通りですが、どの記事も多くの建築物を実際に目にした菅原の、イタリアの芸術と芸術史に寄せる思いが溢れています。
記事を読むと、ローマ在住の娘夫婦が同行し案内したと考えられる記述が多くあります。娘は美術を専攻し、その夫は彫刻家でしたので、芸術を巡る豊かな会話が交わされたことでしょう。
19世紀の建築史、彫刻史、絵画史、音楽史を書こうと思えば書けるかもしれないが、中世紀建築史、彫刻史、絵画史、音楽史を考えるのは不可能である。相互は切り離せない一体をなしているからである。彫刻史の近世に初めて作者の現われるのはピザーノ父子の名である。まさにルネッサンスの曙であるが、彼らの作品は建築と切り離しては存在し得ない。建築の一デテールとして、あるいは建築する一要素としての働きがその芸術である。ピザーノの彫刻は同時に中世紀最後のエスプリである。ルネッサンスを遙かに過去にしたバッハの音楽にはエスプリがある。文化を形成する要素の名は同じテンポ、同じ様相では発展して行かない。あらゆる芸術のジャンルが一体をなしていた中世紀文化を感得するには流動芸術にも心を向けない限り、造形芸術もその真髄は体得できないはずであり、反対もまた同様であると思う。
(中略)
風土、場所、人間生活との行動、……これらを除外して作品だけを独立して鑑賞し得るのは、芸術が分化、孤立しきった19世紀プチブル文化の最も哀れな姿の作品だけにより通用しない。「日本人の行かないイタリア」の副題を「日本人の見てこない、聴いてこないイタリア」としてこの稿を結ぶ。」
出典:「聖アンブロージョのミサ」(『芸術新潮』19巻8号 p128-129)
この旅行を含めた菅原明朗のイタリア・欧州旅行を評論集の年譜からひろってみました。
- 1967(70歳)約半年間イタリアを中心にヨーロッパ各地を旅行。
- 1969(72歳)3月、ピツェッティの一周年忌、記念演奏会のために関西マンドリン合奏団とともに再びイタリアへ出かけた。
- 1972(75歳)渡欧する。
- 1974(77歳)イタリアを旅行する。アスコリピチェーロ、マチェラータ、フェルモ、テラータというような観光地ではない、地方の小さな町の教会を訪れた。建築物に対する興味を持っての旅であった。
- 1981(84歳)5月7日、一ヶ月間イタリア旅行。ローマのカラビニエリバンド(陸軍憲兵隊軍楽隊)を訪問した。
出典:菅原明朗評論集『マエストロの肖像』
http://d.hatena.ne.jp/nipponica-vla3/20151221/1450675253
このほかに、1980年83歳の時にもイタリア旅行をした、という別の記事がありますが、評論集の年譜に記載がないので何かの間違いかもしれません(新響プログラムより)。
参考:
※写真はアドリア海を挟んでヴェネチアの向かいにあるクロアチアの街並み。長らくヴェネチアの支配下に在り、建物はイタリア文化が色濃い。