ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

池内友次郎が語る島岡譲

 CD「池内友次郎の音楽とその流派」(NKCD6570/2)のライナーノーツに、池内友次郎と門馬直美の対談が載っています。その中から池内が島岡について語っている部分を抜粋しました。(1969年の対談)

池内:島岡譲という人がいます。矢代君などよりも先輩ですが、この人は私のところで一種の開眼をして、それから一人でいろいろ研究され、その後パリのコンセルヴァトワールでギャロン兄弟に師事して、現在は後進を指導しています。島岡君は、コンセルヴァトワールの和声法とフューグを完全に身につけた人です。しかも、それを土台にしてなお深く研究され、現在はその面では日本で最高の存在です。島岡君を中心にして、芸大の一般学生のための和声の教科書を作りました。これはすばらしいものです。私がそれの完成のためにある程度の協力をしました。いま功績ということを言いましたが、この著作による授業体系を芸大に植えつけたこと、この本は今後いろいろ改良されてゆくでしょうが、ともかく和声授業を軌道に乗せたこと、このことは、私の一つの功績と言えるかもしれません。島岡君のような人が、これからどんどん出てくることを切望しています。変な自称作曲家は必要ありません。(p14)

■参考

CD「池内友次郎の音楽とその流派」

 1969年に録音され当時LPレコードで出た「池内友次郎の音楽とその流派」が、2001年にキングレコードからCDで再発売されました。それを2011年にタワーレコードが再々発売した3枚組CDが手元にあります。池内友次郎と彼に連なる10人の作曲家、小倉朗、貴島清彦、別宮貞雄、宍戸睦郎、松村禎三黛敏郎間宮芳生矢代秋雄三善晃、野田暉行、の作品が収録されています。50ページにわたるライナーノーツ付。

池内友次郎の音楽とその流派 = Tomojiro Ikenouchi et son ecole
 東京 : King Records, 2001, p1969
 コンパクトディスク3 : ディジタル, ステレオ ; 12 cm. + 付属資料1(50p)
 録音: 1969年7−8月; アナログ録音
 King: KICC-354〜KICC-356
 内容:

■付属資料の内容(いずれも執筆は1969年)

池内友次郎の音楽とその流派

  • 監修にあたって / 門馬直美…5
  • 池内友次郎氏近影…8
  • 対談・池内友次郎=門馬直美…9
  • 作品解説 / 金子篤夫…18

矢代秋雄の語る池内友次郎

 矢代秋雄が師・池内友次郎の作品について語った文章が、『オルフェオの死』に載っていました。池内友次郎還暦記念演奏会のプログラムに掲載されたものです。その中から、『交響的二楽章』(1951)の前後の作品のものを抜粋します。

弦楽四重奏曲−プレリュードとフューグ

 戦争末期、疎開先の都下調布市の仮寓で書き進められ、戦後に完成された。「熊野」とともに現在までの先生の全作品中、最も充実したものといって差支えない。書式は完全であり、構成は巧みで、音楽は重厚しかも流麗、その上先生の作品には稀にしか見られない情熱と霊感の高揚がある。特筆すべきことは、豊麗な第二主題の活用によって、ともすれば衒学に陥りやすいフューグに潤いとファンタジーを与えて見事な音楽作品に仕上げていることである。(後略)

ソナチネ第四番(ソプラノのための)

 1954年から58年にかけて、先生はソナチネを4曲作られた。即ち、第1番はピアノのため、第2番はヴァイオリンと(ピアノ)のため、第3番はセロと(ピアノ)のため、そして今夕演奏される第4番である。これ等の曲はいずれも「ソナチネ」という簡潔な形式の中に精緻な書式と、洒脱な音楽とを盛っており、最近の先生の音楽に対する態度が端的に表現されている。この第4番に於いては、人声を器楽的に扱い、歌を器楽形式で処理した点が珍しく、曲中ひときわ新鮮な魅力を備えている。(後略)

出典:矢代秋雄オルフェオの死』(深夜叢書社、1977)p170-171

島岡譲が語る池内友次郎

 国立音楽大学附属図書館が1994年に出した『池内友次郎書誌. 改訂目録』の後ろに、「わが師を語る」と題したインタビューが載っています。島岡譲、松村禎三、原嘉壽子の三人にそれぞれ取材したもので、その中から島岡の語る池内の部分を抜粋しました。

わが師を語る / 島岡譲
終戦を境にして、音楽学校も総入れ替えのような形になったわけです。それまではドイツ系のほうが主流で、フランス系の先生はほとんどおられなかったのですが、終戦小宮豊隆学長が就任され、恐らく御父様の高濱虚子先生の関係だと思うのですが、池内先生が作曲の教授になられました。同時に伊福部先生のような“変わり種”の先生も来られて、この両先生が作曲家に座られたわけです。…
 …(池内先生には)あの上野の旧校舎のボロなレッスン室で初めてお目にかかったのです。今から考えてみますと、その時の先生との出会いが私の一生の歩みを決定することになったわけです。まだ先生は40才になられるちょっと前で、私は丁度20才でした。「君若いね」といわれたのを覚えています。先生は、今でもダンディですけれど、終戦直後というのに非常にハイカラな服装でびっくりしたものです。
 私の記憶では、いちばん最初に和声の宿題をいただきました。…そのほかに平均律を真似して自己流で作ったフーガを数曲お見せしたところ、先生は感心なさって「どこでこういうフランス流の勉強をしましたか」と聞かれました。「どこでも習ったことはありません」と答えましたら、先生は「うそでしょ」と大きな声で言われたのを憶えています。(p105-106)

 それは池内先生がフランスでポール・フォーシェという、早く亡くなられたのですが、大変偉い先生に習われたときのノートです。池内先生が課題をやっていくとポール・フォーシェが直すのですが、それを直すのに何時間もかかり、その間生徒はずっと周りに座って見ていなければならなかった。その印象が池内先生には非常に強かったようです。「しまいにはもう原型がなくなってフォーシェの解答になってしまう」とよく笑いながら言われましたが、その手帳が全部残っているのです。五、六冊あったと思います。大型の分厚い立派なノートにきれいに浄書されているのです。…私にとって一番魅力があったのは、何といってもこのノートでした。結局、私が今のような仕事にのめり込んでしまったのも、池内先生に見せていただいたポール・フォーシェ共作の素晴らしい解答に感激して、自分でも何とかこういうものが作れるようになりたいと思ったのが一番の理由だったわけです。(p107)