ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

1934年=昭和九年の交響曲

 ドーソンの『黒人民謡交響曲』は1934年の作曲ですが、同じ年に日本人が作曲した交響曲2曲をニッポニカでは取り上げています。

 昭和9年、西暦にすれば1934年、3人の日本人作曲家が3つの交響曲を作った。オーケストラニッポニカが今回の演奏会で取り上げる諸井三郎交響曲ハ短調と、次回の演奏会に予定されている大澤壽人交響曲第2番、それからもうひとつ、貴志康一交響曲仏陀の生涯》である。しかも、これら3つの交響曲は、日本ではなく、作曲家の留学先で書かれ、完成して間もなく、現地で音になった。諸井の交響曲は1934年10月にベルリン放送管弦楽団によって、貴志のものは同年11月にベルリン・フィルによって、大澤のものは翌1935年(昭和10年)にパリのコンセール・パドゥルー管弦楽団によって、初演されたのである。
 これは大変なことだ。日本人最初の交響曲は、山田耕筰交響曲ヘ長調《かちどきと平和》である。それを山田は留学先のベルリンで1912年(大正元年)に作曲した。しかし、現地で音にする機会はなかった。初演は山田の帰国後、東京で行われた。それ以後も、日本人の本格的交響曲がいきなり海外で初演されることなど、ずっとなかった。そのなかったことが初めて起きたのが、ベルリンでの諸井の交響曲世界初演であり、2番目が同地での貴志、3番目がパリでの大澤なのである。


出典:昭和九年の交響曲シリーズ<その1> : オーケストラ・ニッポニカ第8回演奏会(オーケストラ・ニッポニカ, 2005.11.20) Program note / 片山杜秀

 ニッポニカの連続演奏会「昭和九年の交響曲」(1)(2)の内容はこちら。大澤壽人は米国ボストンおよびニューイングランド音楽学校で学んだ後、1934年にパリに渡り、ナディア・ブーランジェとデュカに師事したのでした。