1892年、ニューヨークのナショナル音楽院にドヴォルジャークが校長として招かれてやってきました。彼は足掛け3年にわたり学生を指導し、交響曲『新世界より』や弦楽四重奏曲『アメリカ』を作曲しました。そして弟子たちには、アメリカの黒人音楽に注目するよう呼びかけました。
これらの美しくて変化に富んだ旋律〔農園で黒人が歌う旋律〕は土から生まれでたものだ。それらはアメリカ的である。それらはアメリカの民謡であり、作曲家諸君はそれに耳を傾けるべきである。アメリカ黒人の旋律に、私は偉大で高貴な学派の確立に必要なすべてのものを見出す。(p181)
レコードが普及していったのもこのころでした。写真は「南部農村に普及した蓄音機」(p219)より。
第8章 学問づいた音楽と一般向きの音楽……175
初めての学術的作曲家
ドヴォルザークとマクダウェル
上演芸術の興隆
オペラ劇場の発展
交響管弦楽団の発展
オーケストラの貴族
超大型演奏会(モンスター・コンサート)
管弦楽音楽の伝道師セオドア・トマス第9章 ポピュラー音楽の世界……201
ティン・パン・アレーの音楽
娯楽のための劇場音楽
ミュージカルへの道
アメリカらしい音楽劇
ジェローム・カーンの『ショー・ボート』
ガーシュウィンの『ポーギーとベス』
ジャズ・エイジからスウィングの時代へ
ニューヨーク市マンハッタンの一角にある楽譜屋街「ティン・パン・アレー」は、ポピュラー音楽の発信地のひとつでした。ジョージ・ガーシュイン(1898-1937)はこの街の楽譜宣伝ピアニストを振り出しに活動を始めたそうです。1899年生まれのドーソンは同じ世代ということになります。ドーソンの『黒人民謡交響曲』作曲の翌1935年に、ガーシュインのオペラ『ポーギーとベス』が作曲されています。
…ガーシュインは、デュボーズ・ヘイワードの小説『ポーギー』を題材に選び、黒人の世界を舞台に乗せたのである。といっても、彼が選んだのは、かつてのミンストレル・ショーの中に描かれた戯画化された黒人の世界ではなく、南部の貧しい漁村に住む黒人の間に展開する愛憎劇だった。そして、音楽には、得意としたポピュラー歌曲の語法を活用したのと同時に、全曲を殆ど台詞なしで作曲することにより、音楽的な首尾を貫くことに成功している。(p214-215)