ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『私の半生記』:早坂文雄(2)

 札幌光星商業学校での早坂文雄とその後です。

楽理の基礎
 早坂文雄先生は部厚い大学ノートを携行して、教壇に立つのが常だった。先生の教室での第一声、『楽音とは』という響きが今も鼓膜にしみ込んでいて、聞えるような気がする。私の家では、父がコールユーブンゲンで、姉達にソルフェージを時折コーチしていた。私もおか目八目で、いつの間にか姉達の仲間入りをするようになった。しかし、楽典は早坂先生の授業で、正しく理解し、習得できたのである。
 『ベートホーベン』と早坂先生が発音するのも、新しい発見だったし、その大作曲家の名前は『砂糖大根という意味でね』とおっしゃったのも忘れない。ペンマンシップも絵も上手だった先生は黒板の字も楽譜も美しかった。
(中略)
 昭和23年、私が東京音楽学校邦楽科に入学して間もなく、日比谷公会堂で、コンチェルト二曲が初演された。伊福部昭作曲のヴァイオリン協奏曲と早坂文雄作曲のピアノ協奏曲であった。終演後、楽屋に先生を訪ねようと、楽屋に向かう長い石段に一歩足をかけると、先生が上から降りて来るのが見えた。階下で、先生を待ち、声をかけた。先生は私のことを憶えていて下さった。音楽学校で筝を学んでいることをお伝えすると、『よかったね。大成してください。今度ゆっくりお話しましょう』と温いお言葉を下さった。
 先生とはこれが最後となった。昭和30年秋、私がニューヨークで新聞に報じられた先生の逝去された記事を発見したのであった。
 映画「羅生門」のボレロを思わせるようなオーケストレーションのひびき、北海道の正調追分を生で歌わせた「日本的祭典」の放送に耳を傾けた時の感激、父達とでかけた札響コンサートで初演された「ホルンの為の三つの小曲」の美しかったこと、先生が学校を退職され、上京されるまでの一年間、札幌市北十一条東三丁目の下宿先で受けた作曲のレッスンのことなど多くのことが思い出される。

引用:唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983)p73-75より

早坂文雄についてはこちらも参照下さい。

早坂文雄作品展 : オーケストラ・ニッポニカ第10回演奏会』(演奏会プログラム)http://d.hatena.ne.jp/nipponica-vla3/20110209/1297251322

早坂文雄 : 日本の交響作品展 3 』(演奏会プログラム)http://d.hatena.ne.jp/nipponica-vla3/20100520/1274357433

日本の交響作品展'96(演奏会プログラム)http://d.hatena.ne.jp/nipponica-vla3/20100715

伊福部昭早坂文雄 http://d.hatena.ne.jp/nipponica-vla3/20100717/1279319677