ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

大木惇夫略歴

 大木惇夫(1895-1977)の自伝小説『緑地ありや』(講談社、1957)は、慶子(作中では恵子)が亡くなるまでの内容ですが、このとき大木は38歳でした。その後1941年(昭和16)に大東亜戦争が起こると、46歳の大木は徴用され宣伝班の一員としてジャワに配属されました。その地での海戦で乗船していた船が撃沈された際、大木は評論家大宅壮一らと海に飛び込み、万死に一生を得ています。その戦場での体験を詩集『海原にありて歌える』にまとめて出版し、大きな評判を得ました。
 その後過労で衰弱し、戦争末期の1年間は福島県で静養しました。戦後は周囲の白眼視が迫りましたが、詩集を出版してくれるところもあり、ようやく立ち直っていきました。1949年(昭和24)にNHK委嘱の『平和への祈り』を書いたのは55歳の時でした。1951年(昭和26)には福島県高瀬河畔に詩碑が建ちました。『緑地ありや』を出版したのは62歳の時でした。
 1961年(昭和36)には故郷広島の平和公園に詩碑が建ち、1967年(昭和42)に紫綬褒章受賞(72歳)、1972年(昭和47年)には勲四等旭日小授章受賞(77歳)。そして1977年(昭和52)7月19日に82歳で亡くなりました。
(以上、『大木惇夫全詩集 1』(金園社、1999)巻末「略歴」より抜粋編集)

 大木が戦後に書いた大地讃頌は、佐藤眞作曲の合唱曲として広く歌われています。また『天地讃頌』という詩には、深井史郎が作曲をしています。

 『緑地ありや』の各章の一覧を掲載しておきます。
大木惇夫『緑地ありや』(大日本雄弁会講談社、1957)
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