下村脩さんは父上が内地に転勤になったので、満州から引き上げて諫早の中学へ転校し、軍需工場にかりだされていました。
1945年8月9日、早朝から蒸し暑い日だった。私はいつものように、長ズボンに白いシャツという服装で、諫早の工場に出勤した。午前11時少し前に空襲警報が鳴った。(中略)
この空襲警報の解除のタイミングが早かったので、安心して防空壕から出てきた人々が、原爆爆発の熱線を直に浴びることになったとは、後でよく聞かされた話である。
逆に私の場合は、空襲警報が解除になり、作業を再開するために工場の屋内に戻ったことが幸いしたかもしれない。仕事にかかろうとした瞬間、建物の中に強烈な閃光が走った。まぶしさのあまり、しばらくは目が見えなくなった。それから40秒ほどたっただろうか。大音響が響き渡って、強烈な爆風がきて、耳がおかしくなった。(中略)
学生たちはいつものように家路についた。朝はあんなに天気が良かったのに、今は空が暗雲で覆われ、家に着く前に、黒い色をした雨が降り出した。家に着いたころには、着ていた白いシャツが黒く染まり、まるでドブネズミのような格好になってしまった。祖母がみかねて、すぐに風呂を沸かしてくれた。(後略)