ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

古澤淑子とクロワザ(その1)

 古澤淑子がパリに落ち着いたのは1937年(昭和12)。翌年には太田(荻野)綾子夫妻は帰国します。

 太田綾子がまだパリにいるとき、彼女は自分の師であるマダム・クレール・クロワザのもとへ淑子を連れていく。
 綾子がマダム・クロワザに師事したのが大正14年(1925)。(中略)
 一度でいいからお会いしたいと、淑子はマダム・クロワザに憧れていた。綾子先生の恩師でもあり、日本でもっとも名の知れた、フランスを代表する声楽家・クロワザ夫人。夫人の歌は、まだ声楽を始めたばかりの淑子を強くとらえてしまっていた。東京で手に入るだけのレコードはすべて手に入れていた。とても弟子入りはできまい。でも一度だけ、お会いしたい。(中略)
 クロワザ夫人の私邸は、ブローニュの森近く。スポンティニ街という美しい静かな住宅地にあった。綾子先生と、旧式の小さな箱型のエレベーターで、ゴットンゴットン昇っていくときの、切ない気持ちは……今、思い出してもドキドキするという。
 ドアを開けて、二人を迎えてくれたクロワザ夫人の美しさ。豊かな、上背のある、優雅な姿に黒い服をまとい、髪を無造作に結いあげた上品で温かみのある笑顔は、長い間の淑子の憧れを満たしてあまりあるものだった。こうしてやっと会えた夫人に次に来るときは楽譜を用意するように言われ、一週間後、10人あまりの生徒が集まる講習会で、フーゴー・ヴォルフの曲を歌った。フランス語をここで歌うにはまだどうしても自信がなく、ドイツリードを選んだのだった。このオーディションのあと、すぐ、自分の教えているコンセルヴァトワールの入学試験の準備をするようにと言われ、淑子は猛練習を始めた。

 そして受験の末見事に合格するのでした。


出典:星谷とよみ『夢のあとで:フランス歌曲の珠玉 古澤淑子伝』(文園社、1993)p80-82