ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

松村禎三とキリスト教

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松村禎三作曲家の言葉』(春秋社 2012)

 作曲家松村禎三キリスト教との関わりについて、『松村禎三作曲家の言葉』(春秋社 2012)から追ってみました。オペラ『沈黙』(1993)と『ゲッセマネの夜に』(2002/2005)については前に書いたので、それ以外の曲や人物についての言葉です。松村には『祈祷歌』『巡礼』など宗教的色彩のタイトルを持つ作品がありますが、『貧しき信徒』以外はいずれもキリスト教関連ではありませんでした。人物について語る中でわずかにキリスト教が顔を出しますが、松村自身は生涯キリスト教とは距離をおいていたことが伺えます。

■第3章 作品を語る

『貧しき信徒』(1996)歌曲 詩:八木重吉(1898-1927)
 何年か前、オペラ《沈黙》を作曲している間に、たまたま夭折したキリスト教徒である八木重吉の詩と出会うことができた。この曲集の五番目の「石」という短い詩で、私はそれに強い印象を受け、そのうちに歌曲として作曲したいと思い始めた。……その結果、八木重吉の詩集から七つの詩を選び出し、ピアノだけの短い間奏曲を加えて、八つの曲よりなる歌曲集が出来上がった。……《風が鳴る》《石》《天というもの》《秋のひかり》は詩集『貧しき信徒』から、《きりすとをおもいたい》は本来は無題で、独立した詩として収められているものを選んだ。……
(「新しいうたを創る会」第3回演奏会プログラム 1996.9.11)より抜粋

■第4章 忘れ得ぬひとびと

遠山一行(1922-2014)
 ストラヴィンスキーを背負い込むとき、フォーヴィズムとも言うべき《春の祭典》から、新古典主義、十二音による宗教作品までを遍歴した一人の作家の体質と姿勢を見事に浮き出させていく。その中で彼の筆が滲むところがある。
 
 「音楽の上の音楽をきずいていた」彼が、「音楽の終ったところで」書いた宗教的作品は、その創作に新しい運命を準備することになった。しばらく忘れていた広大な神の土地の上で、みずからの音楽の畑をたがやすストラヴィンスキーには、長い不在をはじる息子の姿があるが、その音楽のつつましやかな表情に、私は、新古典主義の閉ざされた空間をはるかに超えた美の世界を見て感動したのである。
 
 美しい、光った文章であると思う。これはプロテスタントの謙虚な篤い信仰の中で生きている彼の心が思わずゆるした表現であるように思える。
(遠山一行さんのこと『遠山一行著作集』第6巻月報 1987.4)より抜粋

■第6章 作曲家のオアシス

熊井映画の奥行き 1『深い河』
 『深い河』は1993年に上梓された遠藤周作氏の同名の小説が映画化されたものである。何人かのそれぞれの人生の苦悩を背負った人達が一つの旅行団に参加してインドへ行き、ヒンドゥー教の聖地であるガンジス河に面したベナレスを訪う話である。……一つだけ音楽のない科白と音だけのシーンが入っている。早暁、大津がヒンドゥー語でキリスト教のミサをあげ、路にうずくまっている老婆をガンジス河へ背負って行くシーンである。……個人的な話になるが…1971年、やっとインドへ旅することを得、なかでもベナレスで大きい感銘を受けた。その後に作曲したものが、《ピアノ協奏曲第一番》で、私自身も未だに最も愛着をもっている作品である。
(「深い河」オリジナル・サウンドトラック 1995)より抜粋
 

■第7章 折々の風景

私の一冊 井上洋治『余白の旅』
 これはカトリックの司祭が自らの思索のあとを記したものである。素朴な、夕焼けや、大洋感情の体験から始まって、全く飾りを捨て、誠実に、思念や情操に関する体験が書きつづられている。……この本を読んで驚くことは、彼は決して信仰者として深淵の向こう側にいるのではなくて、私のすぐ傍らに、私と同じフィールドにいると感じられることである。……この本によって、私はキリスト者になるとは思わない。しかしこの書物に接した以上、自らの五体を吹きぬけ、私の生命を生かしてくれる風の音を、おそらく生涯聴きつづけるであろうと思う。
東京新聞 1985.11.22)より抜粋

 松村禎三のこれらの言葉を読んで気が付いたのは、キリスト教に関して遠藤周作との交流から得たものが多いと同様に、遠藤に対して松村がヒンドゥー教に関する情報を提供した結果、遠藤の名作『深い河』が生まれたのではないか、という妄想でした。

遠藤周作『名画・イエス巡礼』を読む https://nipponica-vla3.hatenablog.com/entry/2021/06/19/152853