ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

松村禎三の著作を読む【2】

「作曲に臨む態度」

俳句との出会い。高浜虚子の次男である作曲家池内友次郎先生に師事し、結核の療養所に入るときに「俳句でもやったらどうか」と勧められた。療養所では療養俳句というのが盛んで、同好の士と俳句誌に投稿するようになった。俳人の秋元不死男や寺山修司とも交流した。しかし療養中から始めた作曲で賞をとったこともあり、俳句と音楽は両立しないと考え俳句から遠ざかってしまった。その後だいぶ経ってから、以前詠んだもので句集を出すことになり、秋元先生は温かい序文を書いてくださった。

子どもの頃から音楽が好きで、西洋音楽のレコードを聞いたり卓上ピアノで作曲の真似事などをしていた。音楽コンクールで賞をとった後に伊福部昭先生にも師事し、ヨーロッパにない独自の音楽世界に触れた。

多くの文化はある時期に様式的に完成され、その後は衰退し演奏家だけが残っていく。ヨーロッパの音楽も20世紀に入り十二音音楽まで行きつき、自分が作曲に取り組み始めたころはそればかりだった。しかし自分はそれに与せず、アジアの音楽、特にインドの芸術に刺激を受け、どの音も平等な十二音でなく、中心音のある、ドローンの響く音楽を目指して書いたのが『ピアノ協奏曲第1番』。

水上勉の芝居の音楽を書く機会があり、水上に「在所のない人間は愛せない」と言われ、自分の在所とは何か考えた。それまで生まれ育った京都は陰湿で嫌いだったが、日本の文化に目覚めていき、尾形光琳日本画観世流の能の世界の深さに気づいた。そうした日本文化の世界をヨーロッパの楽器で表現したいと考えている。
(初出:第24回「花曜」総会(関西の俳句会)300号記念集会 記念講演「作曲について私が考えてきたこと」 1995)
出典:『松村禎三 作曲家の言葉』(春秋社 2012年)p16-29より抜粋編集

■参考
松村禎三の著作を読む【1】
https://nipponica-vla3.hatenablog.com/entry/2021/06/05/050152