ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

池内友次郎『父・高濱虚子』(その3)帰国から終戦まで

 作曲家・池内友次郎の自伝『父・高濱虚子:わが半生記』その3は、パリから帰国し日大で教鞭をとり、音楽コンクールの審査員をつとめ、作曲とダンディの作曲法講義の翻訳にいそしんだ戦中生活。貴島清彦の名前が登場します。

西暦(和暦):事項

  • 1937(昭和12):小松耕輔の招きで日大芸術科の音楽科非常勤講師となる。貴島清彦、外崎幹二を知る。コロムビア専属作曲家として作曲する。NHKから国民詩曲を依頼される。
  • 1938(昭和13):このころ毎日新聞の音楽コンクール審査員となる(昭和37年まで)。貴島を押し2位になる。日仏音楽同好会設立、常務理事。デュクソン(Vc)と藤田晴子(Pf)が「日本古謡による幻想曲」を録音。
  • 1939(昭和14):文部省から国民歌の依頼、山田耕筰信時潔堀内敬三、箕作秋吉、大木正夫と共に作曲。佐藤春夫詩『農民の歌』をコロムビアで録音、日比谷公会堂で披露会。
  • 1940(昭和15):コロムビア契約解除。NHKの劇音楽担当。ダンディの作曲法講義を翻訳開始、開成中学同窓の佐藤朔に相談。
  • 1942(昭和17):ソプラノ三上孝子依頼の歌曲「熊野」作曲。独唱会の後に山田一雄指揮新響、ソプラノ長門美保でも演奏。
  • 1943(昭和18):小松耕輔の後任として日大芸術科音楽科主任となる。宅孝二山田一雄、外崎幹二の協力。戦局悪化、調布へ転居。三鷹別宮貞雄と交流。大映の映画音楽の仕事で大牟田へ旅行。
  • 1944(昭和19):NHKから時勢協力の作曲割り当てにはずれる。日大芸術科音楽科閉鎖。調布の家で弦楽四重奏作曲と翻訳を進める。
  • 1945(昭和20):空襲を受けるが幸い無事。兵隊の訓練合宿に行くが担当教官が俳句の弟子だったので合宿せず家に帰れた。終戦

 なにかのきっかけから、ヴァンサン・ダンディのクール・ド・コンポジションを翻訳することになった。作曲法講義と題してこの大仕事に取り組んだのである。最初の一行を書きはじめたとき、小舟に独り乗って大海の沖の彼方へ漕ぎ出るような気がした。開成中で同級であった佐藤朔君を訪ね教示を受けたが、このフランス文学の大家は約一時間ぐらいの間にこの本の大要を把握した。私はその能力に驚嘆した。佐藤君は、三巻にわたるこの大著の内容を見抜いて、この翻訳の仕事は君のライフワークの一つになるものだ、と激励してくれた。この日からこの翻訳の仕事はすこしずつ進行し戦後にまで及ぶのである。(p100)

 私は、仲間の一人としてこれらの人たち[清瀬保二、大木正夫、平尾貴四男など]と往来していたが、先に書いたようになんの信念もなく時勢に乗り遅れまいとうろうろしているだけであったので、次第に皆から取り残されてしまった。ある日、NHKで戦争に協力するために作曲の割り当てがあったとき、十数名の作曲家が集まったのだが、私にだけ注文が無かった。落伍していくようで淋しかった。私の好きな音楽がもう通用しない世の中になっていたのである。(p108)

■参考