ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

池内友次郎『父・高濱虚子』(その1)10代のころ

 作曲家・池内友次郎(いけのうち・ともじろう、1906-1991)の自伝を読みました。自伝ですが『父・高濱虚子』というタイトルで、副題に『わが半生記』とあります。高名な俳人であった高濱虚子(たかはま・きょし、本名:高濱清、1874-1959)の次男として生まれた友次郎は、生涯父の大きな庇護の下に音楽家としての人生を歩んできたことが、率直な筆致で語られています。自伝本文は父の死までで終わっていますが、巻末に友次郎晩年までの年譜が付けられています。それらから「アカデミズムの系譜」に関係する所を抜粋してみました。「その1」は生まれてからフランスに留学するまで。

西暦(和暦):事項

  • 1906(明治39):10/21東京生れ。父は俳人高濱清(虚子)、姉二人兄一人妹四人、父の生家の池内姓を継ぐが高濱家で暮らす。
  • 1912(大正2):鎌倉へ転居し小学校入学。能に親しみ謡と仕舞を習う。
  • 1919(大正8):神田駿河台開成中学入学、俳誌ホトトギスの事務所がある牛込から通学。 中学高学年頃からレコード音楽に夢中になる。姉の立子がユダヤ人の先生に習うピアノを見よう見まねで独習。作曲家を志し外国で修行を目指す。大仏次郎氏と知り合い、作曲を勧められる。ドイツ音楽から次第にフランス音楽へ傾倒し、レコードはフランク、ドビュッシー、ラベルなどを集める。
  • 1924(大正13):開成中学卒業、慶應大学予科に入学。ニコルスカヤ夫人にピアノ、シュレーカーの弟子ルビエンスキに和声・対位法・楽曲分析を習う。教科書はリーマン。
  • 1926(大正15):ドイツ式の教義に満足せず、パリ遊学を父に告白、了解を得る。慶應を退学。

 亡命ロシア人であるニコルスカヤという婦人に紹介され、ピアノを正式に習うことになった。二十歳台の美しい人で、ピアノそのものは素人のようであったが、私には新鮮であった。組し易いところがあり、ときには私自身が曲を選んだりして、ピアノを楽しく学んだ。お弟子さんの発表演奏会で、私はベートーヴェンの告別奏鳴曲を敢えて弾いたりした。この人を通じて、亡命ポーランド人のルビエンスキという人のところで和声を勉強しはじめた。数名で一組になって習ったが、仲間に小松清氏や河上徹太郎氏などがいた。小松氏にはいろいろなことで兄事した。ルビエンスキがどういう経歴の音楽家であったかよく判らなかったが、シュレーカの門弟であると言っており、かなりな音楽家のように思われた。私たちはリーマンの教科書で和声を学んだ。この和声のほか、対位法とか楽曲分析とかも学んだ。それらは貧弱なアルモニュムによって指導されたが、私は熱心に勉強した。しかし、今から見れば、そこに繰り広げられるのはドイツ式の教義のみであり生きた音のない理論だけであった。当時の私は、そのことを十分に批判しえなかったが、なんとなく疑問を感じ本能的に反発した。こんなことでよいのか、というようにさえ思い始めたのであった。(p49-50)

■参考

  • リーマン Riemann,Hugo
    [生]1849.7.18. グロースメールラ
    [没]1919.7.10. ライプチヒ
    ドイツの音楽学者。哲学および音楽を学び,1873年ゲッティンゲン大学で博士号を取得。 78年『記譜法の歴史に関する一研究』 Studien zur Geschichte der Notenschriftを書きライプチヒ大学で教授資格を得た。 1901年より同大学教授。機能理論をはじめとする諸理論を開拓し,音楽史研究でもマンハイム楽派の新しい評価などの業績を残した。その主張は今日再検討されている部分もあるが,近代音楽学の確立者としての貢献は大きい。主著『リーマン音楽辞典』 Musik-lexikon (1882) ,『音楽史提要』 (1901〜13) 。
    出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
    https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3-149413
  • 小松清(1899-1975)フランス文学者、音楽評論家、作曲家、東京大学教養学部教授。作曲家・音楽評論家小松耕輔の弟。師はステファン・ルビエンスキ―、クラウス・プリングスハイム、高折宮次、榊原直。(日本の作曲家:近現代音楽人名事典より)
  • 河上徹太郎(1908-1980)文芸評論家、音楽評論家。諸井三郎と共に楽団スルヤの同人。
  • アルモニュム=Harmonium=ハーモニウム=リード・オルガン