ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

日本洋楽外史(その8)昭和時代5・6

 『日本洋楽外史』第5章「昭和時代」の5は「終戦前後」、そして6は「終戦後」。日響からN響へ、音楽コンクール、そして東京音楽学校から芸大へ繋がり、池内友次郎の再登場で終了します。

■日本洋楽外史 : 日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史 / 野村光一,中島健蔵,三善清達(ラジオ技術社,1978)

第5章 昭和時代

 V 終戦前後
  日本交響楽団からNHK交響楽団へ …294
  完全に継続した音楽コンクール …297
  東京音楽学校から東京芸術大学へ …300
  音楽学校の内紛と改革 …304

 VI 終戦
  ああ、音楽−ラザール・レヴィ …307
  戦後最初の大物−メニューイン …311
  オペラの花開く−イタリア・オペラ …314
  戦後外来演奏家コンテスト …317
  おわりに …321

野村「音楽家たちも兵隊にとられたり工場の慰問演奏にかり出されたりして、音楽会というものは壊滅の状態だったわけですよ。その間にあって、オーケストラだけが演奏活動をしていたんだね。オーケストラでマーチなんかやれば、これほど意気の上がる精神振興に役立つのはなかったんだ。〜だから日響の組織だけはまったく切れ目なしにズーっと続いていたんですよ。これはたいへん良かったことだと思いますね。」(p294-295)

野村「この[音楽]コンクールは運営委員や審査員に楽壇のオーソリティをほとんど全部集めて、全力を傾けてやってるわけでしょう。それでどんなに戦争が苛烈になっても、音楽を練習している応募者が必ずいるんだよ。だから終戦の前年までちゃんと続けてやっていたんだから、これはよくよくのことだよ。ただね、さすがに終戦の年の昭和二十年だけはやれなかったね。企画だけはでき上がっていたんだけれど、それは致し方ない。でも、ここでどうしてもできませんてシャッポを脱ぐのはまことに残念だということになって、次の年二十一年の春に二十年の分をやったんだ。だから昭和二十一年はその年の秋の分と年に二回やったわけだよ。」(p297-298)

野村「文部省から、音楽学校と美術学校を合体して芸術の総合大学を作れという指示がきた。小宮[豊隆]先生は非常に喜ばれたな。」「それから、明治以来ずうっと続いていたドイツ気質で固まっている教育方針もいかん、というのでフランスへ留学してきた優秀な音楽家たちをどんどん教授陣に入れたんだね。それでその頃入ったのは作曲の池内、ピアノの安川・野辺地・宅、ヴァイオリンの巌本真理といった人たちだけど、この人たちはみんな東京音楽学校系統じゃない。それまではそこの卒業生でなければ先生になれなかったんだ。」(p302)

野村「安川[加寿子]さんは戦争直前にフランスから帰ってこられ、盛んにフランス流の演奏活動をされたし、戦後になってもその活動は日本人の中で一番輝かしかったと思うけど、その安川さんが「フランス人の演奏家」を招いたらどうだろう」といってこられたんだよ。そして自分の先生であるレヴィ先生を推挙されて、ただ演奏会だけでなく、フランスのピアノ教育がどういうものかピアノの学生に公開講座をやって貰ったらどうか、といわれた。先生はパリの国立音楽院の名だたる教授でしょう、その資格でお招きしたわけだ。」(p309)