ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

日本洋楽外史(その5)昭和時代1・2

 『日本洋楽外史』第5章は「昭和時代」を6つに区切っているので、まずその1と2。演奏会、レコード、ラジオ放送、来日音楽家、音楽コンクールなどなど、そしてオペラの話題です。

■日本洋楽外史 : 日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史 / 野村光一,中島健蔵,三善清達(ラジオ技術社,1978)

第5章 昭和時代

 I 年号は変われども
  日本洋楽史に大正・昭和の区別なし …162
  音楽ファンが増えたのは演奏会かレコードか …165
  楽壇内人間と楽壇外エリート人間の対話 …168
  外人指揮者概観 …172
  プリングスハイムの再評価 …174
  日本歌曲の展開―アクセントとメロディーと …178
  音楽コンクール−その始まりとうつりかわり …182
 II オペラの動き
  日本オペラ運動のあけぼの …186
  エロチシズムかハイカラか …191
  放送歌劇の創設者−堀内敬三と伊庭孝 …195
  日本楽劇協会とその周辺 …200
  藤原歌劇団のスタート …205
  藤原義江その人、われらがテナー …207
  藤原歌劇団藤原義江 …212
  オペラ運動をやる人間の条件 …215
  マンフレット・グルリット …218
  続「お雇い外国人」考 …221

中島「そのレコードというのが大きな存在なんだよ。いろんな演奏家が来たけど、リサイタルじゃどう考えても曲目が不足なんだ。〜それまでだってビクターとかコロムビアとかいうレコードはきてたと思うけど、イギリスから初めてレコードがきた。〜初めての全曲盤なんかもあったんだよ。僕が覚えているのは、例えばニキッシュの指揮したベートーヴェンの五番ね。」「それが現代音楽、といっても当時のイギリスでいう現代音楽だけど、それをどんどん入れる。ドビュッシーラヴェルもこれではじめて聴いたわけでね。」(p166)

野村「新響が結成される前に、ちょうど日露交歓交響管弦楽演奏会というのがあったでしょう。これはハルピンから来た連中と日本のメンバーが一緒になって、歌舞伎座でやったんだけど、これはまれに見る演奏で、中島さんのいわれる欲求不満みたいなものがまったく無いぐらいに立派なものでしたよ。それにわれわれはどんなに感激したかわからない、そういうことも日本の楽壇を力強く推進させていったと思いますね。」(p169)

中島「放送で思い出すのはね、あれはやはり昭和の初めだったと思うけど、外国から初めての中継放送というのがあって、モーツァルトか何かやったんですよ。〜大変な騒ぎだよ。」(p171)

野村「ちょうど当時ドイツに留学していた音楽学校の音楽史の教授の太田太郎さんが、それじゃというのでグルさん(グルリットの愛称)を日本へ引張ってきたんですよ。〜だいたい彼はオペラの指揮者です。〜それで藤原オペラと一緒になって活動するんだけど、この人は日本のオペラの指揮には非常に貢献したね。」(p173-174)[注:太田太郎は後に荻野綾子と結婚した]

野村「上野に入り切れない前途有望な演奏家の卵が野にいる。また外国で勉強してきた人で教授が出来るような人たちも野にいるものですから、いわば私塾というようなものができてきた。〜そういった私塾で優秀な弟子を養成するけれども、当時は「官立を出た者でなければ人に非ず」みたいなところがあったものだから、そうでない者も救いたい、それを拾い上げて楽壇の登竜門にしようということで、音楽コンクールが増沢建美君の提唱で始まったんですよ。」(p182-183)

参考