ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

日本洋楽外史(その3)大正時代

 『日本洋楽外史』第3章は「大正時代」。第一次大戦ロシア革命、外来演奏家、日本の留学生などなど、大きな時代のうねりがあります。

■日本洋楽外史 : 日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史 / 野村光一,中島健蔵,三善清達(ラジオ技術社,1978)

第3章 大正時代

 第一次世界大戦と視野の拡大 …74
 イギリス新進作曲家の紹介 …77
 ロシア革命と亡命音楽家 …79
 セルゲイ・プロコフィエフ …81
 大田黒・堀内・野村コンビの誕生 …85
 帝劇・ストロークによる外来演奏家の招聘 …87
 レオポルド・ゴドフスキの来日 …89
 帝劇音楽会のオモテとウラ …91
 ローシー盛衰記−ローヤル館時代 …95
 浅草オペラ盛衰記 …98
 浅草オペラと永井荷風 …102
 音楽外々史−永井荷風 …105
 音楽の周辺つれづれ …109
 第一次世界大戦自然主義 …111
 ドイツ派からフランス派へ …113
 交響楽運動の曙と山田耕筰 …117
 人間山田耕筰 …122
 日本交響楽協会の設立 …125
 新交響楽団の結成 …128
 オーケストラ運動の意味 …130
 新聞音楽批評の確立 …132
 大正時代総まとめ …133

 時代の大きなうねりの中で、音楽も当然影響を受けました。そして池内友次郎(いけのうち・ともじろう)が登場。

野村「(大田黒元雄さんは)ヨーロッパへ行って、しかもイギリスにいたんだ。その頃のイギリスの楽壇にはドイツ音楽もあったけれど、ロシアやフランスの新しい音楽も非常に盛んだったので、それを見たり聴いたりしてきて、われわれに植えつけたんですよ。ロシアのムソルグスキーとかスクリアビン、バレエのストラヴィンスキー、それからフランスの印象派。〜こうした音楽は当時の音楽学校ではまったくかえりみられなかったものなんだ、むしろ異端でさえあったわけですね。」(p77)

中島「明治時代は普仏戦争の影響があったということだよ。それまでフランスの影響が強かったものが、ドイツが勝ったためそっちへみんなもっていかれちゃった。だから音楽だってフランスのフの字もなくなったわけだ。それが第一次大戦まで続いていたんだね。ところがこの大戦でドイツが負けたものだから、突然気が楽になった。」(p77-78)

野村「見落すことのできないのが、第一次大戦中に起こったロシア革命だな。それで白系の連中がシベリアへ逃げた。そして日本は連合国側だというのでどんどん亡命してきたわけですね。その中にいた演奏家、しかもこれはみんな二流三流の連中なんだけれど、彼らが当時のロシアの新しい作品などを紹介してくれたし、テクニックの面でもそれまでわれわれの知らなかったロシア風の演奏というものを紹介してくれたと思うんですよ。」(p80)

野村「当時の閨秀ピアニストとして新鮮な感覚をもって抜きん出ていた小倉末子さんが−この人はベルリンのホッホシューレで勉強したんですが、大戦直前にドイツから帰ってこられた。その帰国リサイタルでわれわれが魅力を感じたのは何かというと、これがショパンなんだ。それとドビュッシー。ドイツで学んだ小倉さんが、こんなにドイツ風でない音楽を弾いたんでびっくりしましてねえ。」(p113)

野村「戦争が始まって英米仏が勝っちゃった。となれば、フランスにとっついてしまうのは、これは当たり前なんだよ。」「例えばピアノの野辺地瓜丸や宅孝二、もう少し後で声楽の大田黒養二、作曲で池内友次郎などがパリへ行って、コンセルヴァトアールやエコール・ノルマルで勉強したんですよ。」(p114)