ニッポニカ第33回演奏会は「アカデミズムの系譜」と題していますので、参考になる本を探していたら『日本洋楽外史』というのを見つけました。音楽評論家の野村光一(1895-1988)、フランス文学者の中島健蔵(1903-1979)、NHKディレクターの三善清達(1926-、三善晃の兄上)が、それぞれの体験を踏まえて語り合ったものです。すこぶる面白いので何回かに分けてご紹介します。音楽史のおさらいにしばしお付き合いください。なお野村光一は『名曲に聴く』というレコード批評の本をだしていますが、「あらえびす」の筆名で『名曲決定盤』を出した野村長一(胡堂、1882-1963)とは別人です。
■日本洋楽外史 : 日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史 / 野村光一,中島健蔵,三善清達(ラジオ技術社,1978)
まず第1章は明治時代。「アカデミズムの系譜」に関連した個所をいくつか抜粋します。
野村「〜[幸田延の]先生のディートリッヒ、この人は有名なヴァイオリニストのヘルメスベルガーの弟子なんですよ。それで幸田さんがとび抜けて才能があるものだから、こういう人は外国へ送ったほうがいいというので、ディートリッヒが幸田さんのウィーン留学を極力すすめられたんですね。だから日本の音楽学生がヨーロッパに留学するという端緒を作ったのは幸田先生の先生であるディートリッヒだったと思う。」(p6-7)
野村「当時のウィーンは西洋の音楽の中心地だったでしょう。そこに留学されて、しかもヘルメスベルガーにつかれて非常に正しい教育を受け、ウィーンの実に緻密で豊かな音楽的雰囲気の中で勉強をされたということは、[幸田]先生の人柄もあったと思うけど、先生が初めてドイツ音楽の精神と雰囲気を身につけてこられたんだと思うんですよ。」(p8)
野村「〜洋楽は明治初年には僅かに軍楽隊やキリスト教の讃美歌があっただけでほかには何もないものだから、そこで西洋音楽とはどんなものかということを研究させるために伊沢[修二]さんをアメリカに送った。幸いなことに伊沢さんはボストンでメーソンに会って彼を日本へ連れてきた。メーソンは学校音楽教育者として才能のあった人ですから、日本で西洋音楽の組織を作り、その組織のもとに小学校の唱歌とその唱歌を教える先生を作るために音楽取調掛を作ることになったんですよ。」(p9)
野村「ケーベル先生はね、ロシア生まれだけど音楽精神はドイツで修業されたんですよ。ピアニストとして非常にうまかったし、シューマンなんか本当に知っている芸術家なんだ」(p13)
野村「私にいわせると、音楽というものは非常にコンサーヴァティヴなものです。非常にアカデミックなものですよ。このアカデミックなコンサーヴァティヴな精神と、その精神によって外的に形づくられるものがない限り、音楽は滅亡してしまう。だからやっぱり音楽の純粋な精神とフォルムをもちこたえているところはどこかというと、世界中どこでもみんなアカデミーでしょう。パリのコンセルヴァトワール、ウィーンのアカデミーなんかが音楽の純粋な伝統をもちこたえているのであって、もしそういったところが壊滅したら、音楽は無くなってしまいますよ。」(p40)
野村「第二次大戦が終わるまでは西洋の演奏家が今ほどたくさん日本へ来なかったでしょう。だからレコードに頼るより手がなかったんだね。〜」
中島「〜名著の誉高い野村光一著『名曲に聴く』。あれは初版[1940年]以来愛読して、いまだにもっているよ。ちゃんとチェックもしてある。あれによって何を買うべきか決めるわけだ。」(p47-48)