ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

『マドロスの悲哀』の謎解き

 伊藤昇作曲『マドロスの悲哀への感覚』は、米窪太刀雄著『マドロスの悲哀』を題材に作曲されています。伊藤昇がとり上げたのは航海中の様々なエピソードであって、船員の待遇の悪さではないことは、既にお知らせしたとおりです。ではどうして「船員の待遇の悪さ」だという誤解が生じたのでしょうか。

 米窪太刀雄(満亮)の経歴について、図書館へ行って人名事典の記載がどうなっているか調べてみました。米窪は戦後に労働大臣まで務めているので、著名な7種類の人名事典に項目がありました。そのうちの3種類に、「日本郵船に入社後、『マドロスの悲哀』など、日本郵船の内幕を小説化して会社を追われた」という主旨の記載があったのです。次にこの記載の典拠をみると、『顧問米窪満亮氏追悼録』という資料があげられていました。そこでこの追悼録を某図書館で閲覧したところ、つぎのことがわかりました。

  • この追悼録は、米窪が1951年1月に他界した直後に、関係者12人から寄せられた追悼文を収め、同年4月に日本海員掖済会から小冊子として出されたもの。
  • 米窪の第1作『海のロマンス』については12人のうち10人が触れていて、この本がいかに有名であったかを彷彿とさせる。
  • 第2作『船と人』については、3人が触れ、この本に書いた日本郵船の実習生としての航海経験によって、米窪が労働運動に目覚めたことを指摘している。
  • 第3作『マドロスの悲哀』には別の3人が触れているが、いずれも『船と人』と取り違えた記述になっている。
  • 日本郵船に入社」と書いた人が2人いて、うち1人が『マドロスの悲哀』も取り違えている。
  • 巻末の「略歴」には、就職した松昌洋行と互光商会は載っているが、日本郵船について一言も触れていない。

 この追悼録は全体としては米窪の事蹟を正しく伝えているようですが、追悼文が書かれた1951年は『マドロスの悲哀』出版の1916年から35年後であり、戦争を挟んで人々の記憶も不確かになっていたことが推測されます。問題作『船と人』はおとなしいタイトルなので、いつのまにか『マドロスの悲哀』がそれにとって代わってしまったのかもしれません。また日本郵船には入社していないものの、実習生として航海を経験しているので、それもいつのまにか社員としての経験と考えられてしまったとも考えられます。

 以上、『マドロスの悲哀』の誤解の原因が、人名事典の誤った記載により生じたと考えられること、そして事典の典拠となった資料そのものが、誤解されても仕方のない内容であったことがわかりました。米窪太刀雄はいまごろ彼岸で苦笑しているかもしれません。そして伊藤昇の曲を知ったら、きっと驚愕したことでしょう。